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2016年03月19日

第23回 天地有情






文●ツルシカズヒコ



 野枝が福岡から帰京したころ、一九一一(明治四十四)年八月下旬の蒸し暑い夜だった。

 平塚らいてうは自分の部屋の雨戸を開け放ち、しばらく静坐したのち、机の前に座り原稿用紙に向かった。

 らいてうはその原稿を夜明けまでかかり、ひと息に書き上げた。

 書き出しはこうだった。


 元始、女性は実に太陽であつた。

 真正の人であつた。

 今、女性は月である。

 他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。

 偖(さ)て、こゝに「青鞜」は初声を上げた。

 現代の日本の女性の頭脳と手によつて始めて出来た「青鞜」は初声を上げた。

 女性のなすことは今は只嘲りの笑を招くばかりである。

 私はよく知つてゐる。

 嘲りの笑の下に隠れたる或ものを。


(「元始女性は太陽であつた - 青鞜発刊に際して」/『青鞜』1911年9月号・1巻1号/『元始、女性は太陽であったーー平塚らいてう自伝(上巻)』_p328)

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 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p64)によれば、帰京した野枝は叔母のキチや千代子に対して、露骨に自棄な態度をとり始めた。

 さすがに叔父・代準介にはそういう態度は取れないが、この時期、代準介は長崎と東京を行ったり来たりしていて、月の半分も根岸の家にいなかった。

 準介は野枝の拗(す)ねた言動をキチから聞いていたが、卒業までには何とか落ち着くだろうと考えていた。

 野枝が帰京した後、末松家は入籍を急ぎ、野枝はすでに末松家の嫁なので生活費と上野高女の学費を出したいと申し出た。

 末松家と代準介の折衝により、末松家が学費を負担することで双方折り合った。

 野枝が末松家に入籍されたのは、十一月二十一日だった。

「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』p507)には、野枝は「夏休み以降卒業までの間、従姉千代子と上野高等女学校の教頭佐藤政次郎宅に寄宿する」とある。





 野枝はこのころの苦悶をこう書いている。


 無惨にふみにぢられたいたでを負ふたまま苦痛に息づかいを荒らくしながら帰京したときにはもう学校は二学期に入つてゐた。

 彼女の力にしてゐる先生達は皆で彼女の不勉強をせめて、卒業する時だけにでも全力を傾けて見ろと度々云はれて居た。

 併し彼女の苦悶は学校に行つて、忘れられるやうな手ぬるいものではなかつた。

 彼女の一生の生死にかゝはる大問題だつた。

 きびしい看視の叔父や叔母のゐなくなつたと云ふことも助けて、苦悶は彼女にいろんなまぎらしの手段として強烈なヰスキーを飲むことや、無暗(むやみ)に歩くことや、書物にかぢりつくことを教へた。

 教科書は殆んどのけものにされてすきな文学物の書ばかりが机の上に乗るやうになつた。


(「惑ひ」/『青鞜』1914年4月号・第4巻第4号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p268~269/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p111~112)





 年末、上野高女では「桜風会」(文化祭のようなもの)が開催され、野枝たちのクラスはシェークスピアの『ベニスの商人』を上演し、野枝はベラリオ博士を演じた。

 さらに野枝は指名されて、土井晩翠の『天地有情』の中の新体詩「馬前の夢」を朗読した。


 卒業間際の桜雲会の余興に、シェークスピアの「ベニスの商人」を上演しました時、シャイロックが町田さんで、私が胸の肉一斤を取られようとする商人のアントニオで、ポーシャが竹下さん、ベラリオ博士が野枝さん、バッサニオが代さんでした。

 その時の会に野枝さんが、土井晩翠の『天地有情』の中の新体詩「馬前の夢」の朗読を、堂々と胸を張って終わった時は、会場の全員を夢心地にして了った程でした。


(花沢かつゑ「鶯谷の頃から」/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「月報2」)


 花沢かつゑは「桜雲会」と書いているが、井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(p37)では「桜風会」と表記されている。





 花沢かつゑは、野枝に関するそのころのこんなエピソードも語っている。


 級友で牛乳屋の娘さんが家庭の事情で学校をやめなければならなくなりました。

 佐藤先生もなんとかひき止めたいと考えていらした。

 そこであたしたちはその友達の親にかけあいにいくことになりました。

 ちょうど途中にあたしの家があったので、みんな焼いもなんか買って、家によって相談することにしました。

 ガヤガヤ話しているのを母は障子のかげで聞いていましたが、そのなかでひときわ目立つ野枝さんに眼をつけ、あんなしっかり者をうちの息子の嫁にしたいといったほどでした。


(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p37)


 級長だった野枝の仕切りのよさが目立ったのだろう。

「惑ひ」によれば、野枝はだいぶすさんだ生活をしていたふうにとれるが、最高学年の級長としてやるべきことはやっていたようだ。

 井出文子は上野高女時代の野枝についてこう書いている。


 ともかく上野女学校のいきいきした下町娘気質のなかで、野暮な田舎娘の野枝は精一杯反応し、もちまえの強い性格で逆に友達に一目おかせている。

 これらの話から想像しても、上野女学校での教育が野枝の精神形成にあたえた影響ははかり知れないほどおおきかったとおもわれる。


(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p37~38)




★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(上巻)』(大月書店・1971年8月20日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




posted by kazuhikotsurushi2 at 12:22| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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