2016年03月09日
第6回 代準介
文●ツルシカズヒコ
「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』_p506)によれば、一九〇八(明治四十一)年三月、周船寺高等小学校三年修了後、野枝は長崎に住む(長崎市大村町二十一番地)叔母・代キチのもとへ行き、四月、西山女児高等小学校四年に転入学した。
野枝、十三歳の春である。
代キチは野枝の父・亀吉の三人の妹の末妹だが、妹の中で一番のしっかり者だった。
キチの夫・代準介(一八六八〜一九四六)は実業家として財をなし、代一家は裕福な暮らしをしていた。
代準介の先妻・モト子(一八七〇〜一九〇五)は一粒種の長女・千代子(一八九三〜一九二六)を生んだが、千代子が十二歳のときに病死した。
代準介と野枝の父・亀吉は幼なじみであり、その縁で野枝が長崎に来る二年前に、キチが代準介の後添えに入ったのである。
岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(p62)と井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』(p24~25)は、野枝が長崎に来た時期を一九〇四(明治三十七)年秋としているが、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p37)は代準介がキチと再婚した時期などの状況から判断し、一九〇八年春が「正しいと考える」と指摘している。
矢野寛治の妻・千佳子は代準介の曽孫にあたり、『伊藤野枝と代準介』は代家に伝わる代準介の自伝『牟田乃落穂』のデータを駆使して書かれている。
野枝が代一家のもとに身を寄せることになったのは、叔母・キチの采配だった。
ノエの叔母であるキチは、実家の困窮を常に気にかけており、夫・代準介にノエの扶養を願い出ている。
代も長女・千代子(先妻・モト子との間の子)が一人娘ゆえに、ほぼ一歳違いのノエを姉妹同様に育てることに同意する。
この頃、父・亀吉は家を捨て、懇ろの女性と行く方をくらましていた。
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p30~31)
野枝のその後の人生において、叔父・代準介はキーになる人物のひとりである。
代準介とはいかなる人物だったのか。
『伊藤野枝と代準介』(p222~228)に収録されている「代準介・年譜」を、野枝が長崎に来る前年までたどってみる。
●1868年(慶応4年・明治元年)
福岡県糸島郡太郎丸村で生まれる。
●1880年(明治13年)12歳
周船寺(すせんじ)高等小学校卒業。父が長崎に出たので、家業を継ぎ、日用雑貨業および穀物買入業を営む。同時に貸本業も営む。
●1887年(明治20年)19歳
九州鉄道株式会社社員に推挙。
●1888年(明治21年)20歳
市町村制度実施となり、太郎丸村一帯の村役場収入役に当選する。
●1890年(明治23年)22歳
収入役を辞任。実業家に転じるべく父のいる長崎へ。高島炭鉱小曽根商店に入る。
●1891年(明治24年)23歳
貿易商で廻漕業の相良商店の娘モトを妻に迎え、妻の実家の家業を手伝う。
●1894年(明治27年)26歳
日清戦争開戦により、海軍から旗艦松島・厳島・橋立の三艦の酒保用達を命じられる。
●1895年(明治28年)27歳
相良商店を離れ、独立する。海軍の仕事を第一として事業を発展させていく。
●1898年(明治31年)30歳
ロシア艦隊ウスリー号、平戸生月島に座礁。これを三萬円(現価格およそ4億5千万円)で買収。ウスリー号引き揚げ途中で売却。
●1900年(明治33年)32歳
三菱長崎造船所の用達となる。木材納入と古鉄の払い下げを引き受ける。
●1901年(明治34年)33歳
以降、三菱からの仕事が殺到する。事業順調にして、長崎一流人とのサロンを作る。茶道に熱中し書画骨董を蒐集する。
●1904年(明治37年)36歳
木材納入のため、全九州はもとより、四国、大阪、名古屋、北海道を視察。
●1905年(明治38年)37歳
三菱におもに槻(けやき)を納入する。
●1907年(明治40年)39歳
上京して宮崎滔天の取り次ぎで頭山満を訪ねる(初対面)。長崎東洋日の出新聞社社主・鈴木天眼、主筆・西郷四郎の選挙運動をして衆議院議員に当選させる。
地方都市の叩き上げの実業家である。
人脈があり機を見るに敏だったのだろう。
海軍と三菱財閥との太いパイプによって、日清日露戦争をうまくビジネスにつなげ財を成した。
政治やジャーナリズムにも一家言のある親分肌の国士風実業家だった。
『伊藤野枝と代準介』によれば、「代商店」は三菱長崎造船所の御用達として木材の納入をおもな商いとし、代準介は「代商店」の社長として良材を求めて日本全国を奔走していた。
『牟田乃落穂』によれば、代準介は鈴木天眼の選挙運動の際、「予、選挙事務長となり、社員三、四十名、草履がけにて運動に従事せしめ」(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p45)とあるので、「代商店」の従業員は三、四十人ぐらいだったようだ。
三菱長崎造船所は一九〇八年に世界最高クラスの豪華客船「天洋丸」を造る技術を備えた、東洋最大の民間造船所となっていた。
玄洋社の総帥・頭山満は代の遠縁にあたり、代は頭山を一族の英傑として幼き日より霊峰富士の高嶺を仰ぎ見るように、畏怖畏敬、憧れを抱いていた。
頭山に面会した代は頭山の大アジア主義に共感した。
頭山の謦咳に触れ、お金や書画骨董、茶会だけの生き方を恥じた。
代は有為の子弟の育英も実践していて、多くの不遇であるが有為の子弟の学費の援助をしている。
★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)
★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)
★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)
★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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