2016年04月16日
第88回 アウグスト・ストリンドベリ
文●ツルシカズヒコ
木村荘太「牽引」によれば、六月三十日、荘太はこの日の朝早く目が覚めてしまった。
荘太は野枝を空しく待ち続けた。
時計が昼の十二時を打った。
いてもたってもいられなくなった荘太は、野枝が男に引き止められているさまや、急に過度の傷心のために身体を悪くして寝ているさまを想像した。
荘太は外に飛び出し、後先を考えず、野枝に電報を打った。
「ケフゼヒキテクダサイ」
この日の朝、辻はいつものように出かけた。
出かけ際、野枝はひとり取り残されるような気がして心細くなった。
特に月曜日の朝が嫌だった。
野枝が湯に行こうとして仕度をしていると、電報が来た。
自分宛てだったのでびっくりした野枝が電報を裏返すと、「キムラ」とあった。
なぜ電報なんか寄こしたんだろう、行こうか行くまいか……。
電文を読み当惑してしまった野枝は、とにかく、湯に入って考えることにした。
湯に入りながら野枝は考えた。
自分さえ確かなら会っても大丈夫だろう……。
湯から上がりすぐに帰宅して出かけた。
昼に電報を出した荘太は、下宿に帰り原稿紙に文字を連ねた。
荘太は自分が陥っている境遇と苦悩を書き連ねた。
夕方になっても野枝がやって来る気配はない。
静かに待っていられなくなった荘太は、出かけて野枝に会うことにした。
もしそこに男がいたら、荘太はその男にも会う気になった。
留守に伊藤という人が来たら、この手紙を渡して戻るまで待たせておいてくれと女中に言い置いて、荘太は下宿を出た。
野枝は出がけに辻の眼鏡をかけた。
崖を歩いていると眩暈がした野枝は、保持のところに駆け込んだ。
保持は四時すぎに品川に行くという。
それまで保持は近所に出かけた。
保持の妹と野枝は横になり、野枝は枕を借りて少し寝た。
四時ごろに帰って来るはずの保持は、なかなか帰って来なかった。
野枝がいっそ会いに行かないことにしようかと思っていると、保持が帰って来た。
ふたりは一緒に出かけた。
神保町で保持と別れた野枝は、青山行きの電車に乗り見附上で降りた。
このあたりに不案内な野枝だったが、なんとか荘太の下宿を探し当てることができた。
女中に案内されて荘太の部屋に行くと、荘太は留守だった。
別の女中が荘太の手紙を持ってきて野枝に渡した。
私はあなたの処へ行きます。
若しお出下すつたのなら誠に相済みませんが少々お待ちなすつて下さい。
ふたりは大変な運命の途にゐるのですから必ずお待ち下さい。
直ぐ帰ります。
さうしてお話します。
何でも本を御覧になつてゐて下さい。
(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p227/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p60~61)
染井は番地が滅茶苦茶に飛んでいる。
荘太は何度も行ったり来たりして、散々探しあぐねた末に、 ようやくそれらしい家の前へ出た。
窓越しに外から見える机に座っている人が見えたので、尋ねてみた。
「このへんに辻さんとおっしゃる方は?」
「私が辻です」
と、その人が言った。
野枝は荘太の部屋にじっと座っていた。
女中から渡された手紙を読んだ野枝は「大変な運命の途にゐるーー」とはなんだろうと思い、馬鹿にされているような気もした。
わざわざ染井の家まで来て伝えたい大事なこととはなんだろう。
何時ごろ出かけたのだろう。
荘太の帰りは遅くなりそうだ、今日も義母を迎えに行けないだろう。
いろいろなことが野枝の頭の中に浮かんだ。
また眩暈がしそうな気がしてきた。
机には原稿紙が取り散らかっていた。
壁にはムンクの『アウグスト・ストリンドベリ』とゴッホの『自画像』が架けてあった。
風がないので、野枝の襟元と額から汗がにじみ出てきた。
三十分ばかり待ったが、荘太が帰って来る気配はなかった。
そこに出ていたソニアの自伝を眺めながら、野枝は考えをめぐらせていた。
わかりにくい染井の奥の辻の家を荘太は探し当てることができただろうか。
荘太は辻と会っただろうか、会って話をしているだろうか、どんな話をしているだろうか……。
木村氏が私に会ひたいといふ用事は何だらう。
私はもう考へあぐんでしまつて、ボンヤリしてしまひました。
何の為めに、知らない人の室にぢつと座つてゐるのか分らなくなつてしまひました。
(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p228/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p61)
このとき、野枝は十八歳、荘太は二十四歳である。
らいてうは二十七歳だった。
「塩原事件」で世間を騒がせ、浅草区松葉町の海禅寺の住職・中原秀岳との「大人の交際」も体験していたらいてうは、ヒートアップしている野枝と荘太について、こう分析している。
……野枝さんは……木村氏に対する「淡い恋」といふものを是認してゐるが……野枝さんの動した感情の中には自(おのづ)から二つに区別すべきものがあると思ふ。
その一つはフレンドシツプで今一つはラヴだ。
しかもそのラヴ決して「淡い恋」などゝいはるべき性質のものではない。
寧ろパツシヨネートラヴとでもいふべきものだつたと思ふ。
このラヴは主としてあの当時の野枝さんの生理状態に原因する閃光的な殆ど内臓や筋肉にばかり係るものとして瞬間に消滅して仕舞つたが、一方は主として魂にかゝはる比較的長き生命のあるものとして尚今後も自然にまかせておけば生長発達すべきものだつたと思ふ。
併し男は多くの場合その相手たる女の友情を理解しない。
男性に共通な自惚は女性との親友関係を直に恋愛だと早合点させる。
そして恋人として取扱はうと只管(ひたすら)にあせる。
……かういふ時、女はその男の案外自分を知つてくれなかつたといふことに対して或る腹立たしさと、軽侮の念を有つやうになる。
そして……今迄の厚い友情までも害して仕舞ふやうな不幸に終る場合は随分あり勝ちなことだと思ふ。
木村氏も亦実にかゝる男の一人であつた。
(平塚らいてう「『動揺』に現はれたる野枝さん」/『青鞜』1913年11月号・3巻11号_p96~97)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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