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2016年05月22日

第207回 河原なでしこ






文●ツルシカズヒコ




 御宿から帰京した野枝は第一福四万館の大杉の部屋に転がり込んだ。

 一九一六(大正五)年七月十三日の夜、野枝は大杉に見送られて東京駅から大阪に向かった。

 東京駅は大勢の人でごった返していて、なんだか急かされるような出発だったので、野枝の気持ちは落ちつかなかった。

 鶴見あたりになって、ようやく野枝の気持ちは落ちついてきた。

 沼津までは車内が混雑していて、体を曲げるのも窮屈だったが、沼津でボーイが席を代えてくれたので少し眠ることができた。

 天竜川を渡るときには、車窓からきれいな月が見えた。

 野枝はいろんなことを考えながらその月を眺めていた。

 車中、野枝は大杉の著作『労働運動の哲学』を熱心に読み続けていた。

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 センデイカリスト等は、信者の如く行為すると同時に、又懐疑者の如く思索する。

 強烈なる生活本能に従つて行為しつつ、其の行為の自己に与ふる結果に就いて、出来るだけの判断に耽る。

 多くは直覚より成る彼等の思想は、此の行為と判断との全力的結実の集積である。


(「労働運動と個人主義」/『近代思想』1915年12月号・3巻3号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第一巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第6巻』)





 野枝は大杉の言わんとすることが、自分の体の中にしみ込んでいくような快感を覚えた。

 すべてのことが、大杉に一歩ずつでも半歩ずつでも近づいているーーそれが嬉しかった。

 大垣のあたりで夜が明けた。

 野枝は躍り上がりたいようないい朝だと思った。

 関ヶ原のあたりには緑の草に交じって可愛らしい河原なでしこがたくさん咲いていた。

 野枝が好きな合歓の花も咲いていた。





 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、野枝の乗った列車が大阪駅に着いたのは、七月十四日の朝八時だった。

「浴衣の上にお納戸鼠の夏羽織を着け、麻袋の手提げ袋を提げて」列車から降りた野枝は、『大阪毎日新聞』記者の和気律次郎に出迎えられたので、びっくりした。

 和気が出迎えたのは、大杉が電報を打っておいたからだった。

 野枝は大阪市北区上福島の代準介・キチ宅で旅装を解き、午後、大阪毎日新聞社を訪れた。

 学芸部長の菊池幽芳は小説執筆のため社を休んでいたので、和気と話をして心斎橋まで一緒に行った。

 和気は野枝の来阪を『大阪毎日新聞』の記事にした(七月十五日、七月二十日)。

 野枝の来阪目的は代準介へのお金の無心だったが、代は野枝を大杉から引き離そうとしていた。


 野枝が御宿上野屋旅館滞在中、代は大阪の名物や、夏用の単衣や浴衣などをキチから送らせているが、お金は送らなかった。

 とにかく、大阪に引越し、東京からも近いので一度会いに来い、家を見に来い、足を運べの便りを出し続けた。

 旅費は代が送った。

 大杉という男から、溺れている娘を引き離したかったのだ。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p124)





 野枝は大阪に向かう途次、大杉に二通の葉書を書いた。


 ひる頃四谷から帰つて見ると、途中からのハガキが二本ついている。

 あなたもいよ/\尾行につかれる身分になつたのかな。

 御はづかしい次第だらう。

 この光栄に報ひる為めにだつて、本当にしつかり勉強しなくちやならないね。

 でも、あなたに分るやうな尾行ぢや、よつぽどぼんやりした奴なんだらうね。

 本当に、若しうるさい事をしたら、警察へウンと怒鳴りこむがいい。

 哲学があつたのはよかつた。

 しかし、あんな小さなものでは、一二時間のうちに読み終つて了つたらう。

 ゆうべは保子の処に行つた。

 四五日前に……四十度あまりの熱が出て、それ以来床に就いてゐるのださうだ。

 そんな病気になつても、電話一つかけて来ないのだから、随分見かぎられたものだ。

 しかしゆうべは、不思議にも例の狐のキの字も出ないで済んだ。

 そしてけさは、僕の財布を見て、黙つて一円札を一枚入れてくれた。

 ……実はあなたが出発したあとへ、ほんのちよつとと云ふ約束で神近が来たのだ。

 そしてつまらぬ事から物云ひが始まつて、やがて床を二つに分けて寝て、又朝になつて前夜のつづきがあつて、とうたう喧嘩別れに別れて了つたのだ。

 僕からは、ゆうべ、あたまが静かになつたら遊びにおいでとハガキを出して置いたが、あちらからはまだ何んとも云つて来ない。

 どうなる事やら。

 けふは丁度正午から始めて、此の半ペラの原稿紙で四十枚書いた。

 今から又、寝るまでにもう三十枚ほど書きたいと思つてゐる。

 あしたからも此の具合ひで進んでくれるといいのだが。

『文章世界』の七月号に、らいてうが一寸したものを書いてゐる。

 あなたに就いてのものだ。

 読んでみるがいい。

 本当に早く帰つて来るんだよ。


(「戀の手紙ー大杉から」大正五年七月十五日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p643~645)



★『大杉栄全集 第一巻』(大杉栄全集刊行会・1926年7月13日)

★『大杉栄全集 第6巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 18:51| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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