2016年04月26日
第127回 貞操論争
文●ツルシカズヒコ
一九一四(大正三)年の『青鞜』を語る上で欠かせないのが、西崎(生田)花世と安田皐月の間で起きた「貞操論争」である。
発端は生田長江主幹の文芸評論誌『反響』九月号に、花世が発表した「食べることと貞操と」という告白的な文章だった。
その所説が平塚らいてう『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』に載っている。
女が食べるために、ことに自分だけでなく、養育の責任ある弟妹などがある場合はなおさら、他に生活手段がないとき、女の最後のものを食に代えることは、やむを得ないこととして許されるべきである。
食べるということが第一義的の要求であって、自分一個の操のことは第二義的な要求である。
在来の道徳が処女を捨てさせまいとするのは、それが決して罪悪だからではない。
処女であることが、結婚の有利な条件だからに過ぎない。
だから結婚の場合の不利さえ覚悟の上なら、貞操を売って生活するのも、また自由ではないか。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p533~534)
皐月が『青鞜』誌上で花世に反駁した。
「自分一個の操の事」を考へないで何処に生活があるのだらう。
何で食べる事が必要だらう。
操……と云ふものは人間の、少くも女の全般であるべき筈だ。
決して決して決して部分ではない。
部分的宝ではない。
これ丈けが貞操で、これからが貞操の外だなどゝ云ひ得るわけがない。
人間の全部がそれでなければならない。
女の全部がそれでなければならない。
何物を以つても何事に合つても砕く事の出来ないものが操である筈だ。
(安田皐月「生きる事と貞操と」/『青鞜』1914年12月号・第4巻第11号_p2~3)
下町の「ことぶき亭」という寄席の女中をするなど、パンを得るために重労働を強いられていた花世は、パンのために「貞操を売る自由」を主張したが、皐月にとって貞操とパンを交換することは自己を侮辱し、女性を侮辱することであり、いやしくも自我に目覚めた女性の声としては呆れ返るほど腹立たしいことだった。
私は私を生かす為に生きてゐる。
只其為に生きてゐる。
私は生田氏の一文に余りに驚き余りに呆れて、どうしても書かずに居られなくて書いた。
九月号のこの記事が今迄何とも云はれなかつたと云ふ事丈けでも、「どうせ女だ。女と云ふものは食べられなくなれば其那者(そんなもの)さ」と云はれて居る様な不快を感ずる。
(安田皐月「生きる事と貞操と」/『青鞜』1914年12月号・第4巻第11号_p9)
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、『平民新聞』第三号の製本が仕上がったのは一九一四(大正三)年十二月十八日、夜十時過ぎだった。
『平民新聞』を印刷していたのは銀座の福音印刷だったが、警官十四、五人が福音印刷を取り巻いて厳重な警戒をしていた。
タクシーで突破する方法を思いついた大杉は、吉川守圀、渡辺政太郎、荒畑寒村と新聞を抱えてタクシーに乗り込み、まだ発禁命令がなく手が出せない警官を尻目に運搬に成功した。
『平民新聞』第三号は翌、十二月十九日に発禁処分になったが、持ち出すことには成功した。
しかし、吉川と渡辺が運んだ分は、神田のある菓子屋に隠したのだが、翌日になってその二階に警部補が下宿していることがわかった。
尾行つきの彼らは取りにゆけない。
渡辺がその話を野枝にすると、野枝はすぐに俥で駆けつけ自宅に隠した。
そのことを大杉が知ったのは、ひと月くらい後だった。
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image