2016年04月26日
第126回 身の上相談
文●ツルシカズヒコ
野枝が『青鞜』の編集発行人になる件について、『読売新聞』が記事にした。
「原始女性は太陽なり」で婦人の自覚を促した「青鞜」もこの頃幹部の間に意見の扞格(かんかく)を生じたので愈々(いよいよ)平塚らいてう氏は同誌より退隠し、伊藤野枝氏が全部の責任を帯びて今後益々健闘すると云ふが事情に精通した人は野枝氏の立場に可なり同情を持つてゐるらしい。
(『読売新聞』1914年11月27日)
野枝は誤解を回避するために、速攻で『青鞜』にこう書いた。
廿七日の読売新聞に社の内部で何かゴタ/\でもあつて私が青鞜をやることになつたとか何とか妙な事が書いてありましたが決してそんなことはありません。
委しいことは来月号に書きます。
(「編輯室より」/『青鞜』1914年12月号・第4巻第11号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p142)
野枝は『青鞜』の発行を自分に継続させてほしいと、らいてうに懇願した。
創刊後もう三年以上も続けて来てまださう行きつまつたと云ふほど迫つてもゐないのに廃刊にするのは如何程考へ直してみても惜しい、殊にこの創刊後とやかく云はれ続けて来たけれどもそれでも幾多の若い人達を助けて来たことを思へば猶更捨てられません。
私自身が先づ一番に青鞜によつて育てられました。
歌津ちやん、がそうです数へ出すときりのない位です。
これからどんな人が生まれるかも知れません。
私はそのことを思ひますととても思ひ切つて投げ出す気にはなれません。
殊に……或る時ふと目に触れた私共に対する批評の中に『彼等は人々の好奇心によつて生まれたものだ。人々の好奇心が失くなつて存在しやう筈がない。』と云ふ言葉が雷のやうに私の頭を横切りました。
私はあやふく涙が出さうになりました。
『どんな苦痛と戦つてもやつてゆく!』
私は固く/\決心したのでした。
(「『青鞜』を引き継ぐに就いて」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p153)
野枝は『青鞜』十二月号に二本の原稿を書いた。
●「再び松本悟郎氏に」(※「悟郎」は「悟朗」の誤記)
●「雑感」
「再び松本悟郎氏に」は、松本悟郎「伊藤野枝氏に」(『第三帝国』第二十四号・十一月十五日)への反論である。
野枝は自分と松本との見解の違いを明確にした。
野枝にとっては「社会自身は私には無意味な、問題にならないものです。それが自分の生活に関はつて来るときにはじめて問題になる」が、松本は「社会と自分の生活に交渉があるとかないとか云ふ馬鹿な事はない。社会と自分と引きはなして考へることは出来ない」と考えている。
この見解の相違は仕方ないとして、野枝はさらにこう述べた。
私は自分のことやその他、思索する時に、かなり社会とは没交渉になつてゐます。
それはあなたのやうな一も社会二も社会と何でも社会によつて事を運ぼうとするやうな忠実な社会賛美者には到底不可解だと思ひます。
私は現代の社会に対しては思ひ切つて不満をもつてゐる反逆者の一人であることを信じます。
そうして私はあなたとは違つた意味で「我々は一切の過去其物だ」と云ふ哲理を賛美します。
(「再び松本悟郎氏に」/『青鞜』1914年12月号・第4巻第11号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p135)
「雑感」で野枝は『読売新聞』の「婦人附録」にまた憤っている。
読売の婦人附録の愚劣さに毎朝不快を感じる。
就中(なかんずく)私を憤らせるのは身の上相談である。
先づ問ひの方だ。
あんなくだらない事まで他人に相談しなければ仕末のつかないやうないくじのない人があゝもゐるかと思うと腹立たしくなつて来る。
実に下らない人達だ。
けれども答へる人に至つては更に言語道断である。
こんな人に身の上相談を持ちかける人も人だがこんな答へに満足してゐるやうならまだ相談しない方がましだ。
そう云ふ人達ばかりだからあの附録が宣言とはまるでかけはなれたありふれた婦人雑誌とすこしも違はない愚劣なものなのも不思議ではない。
(「雑感」/『青鞜』1914年12月号・第4巻第11号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p139~140)
「雑感」では社会主義者、無政府主義者にも言及している。
「私は現代の傾向を要約して『量』(コンテイテイ)であると云ひたい。
群集と群集精神とは到る処にはびこつて『質』(クオリテイ)を破壊しつゝある。
今や私どもの全生活ーー生産、政治、教育ーーは全く数と量との上におかれてゐる」
というエマ・ゴールドマンの言葉を引き、野枝はこう書いた。
本当に、さうだ。
多数者の横暴は現今に於ては常に全く正義とその位置をかへてゐる。
私はまだソシヤリストでもないしアナアキストでもない。
けれどもそれ等に対して興味はもつてゐる。
同情も持つてゐる。
それは正しい思想であるからは、同情をもつのは当然である。
この人口の稠密(ちゅうみつ)した日本に社会主義者と目される人が三千人とはゐないようだ。
そしてそれ等の殆んどすべてが圧迫をおそれてゐるやうな人達ばかりださうだ。
心細いことだと私は思ふ。
真実に主義の為めに殉じ得る人は数える程しかいない。
平民新聞が二度出して二度発売禁止の厄に遇つたことなどあまりに政府の小胆を暴露するものである。
私はどう見ても彼等はたヾソシヤリスト、アナーキストと云ふ名に怖れを抱いてゐるとしか思はれない。
私は彼等の横暴を憤るよりも日本に於るソシアリストの団結の貧弱さを想ふ。
あの大杉、荒畑両氏のあれ丈けの仕事に、何等の積極的な助力を与へることも出来ないあの人たちの同志諸君の意久地(いくじ)なさをおもふ。
更に私達婦人としての立場からそれ等の主義者の夫人たちがもつと良人(おつと)に同化せられることを望む。
夫人同士の結合が良人達の団結をどの位助けるものかと云ふことを考へられるならばもう少し広い心持ちになられて欲しい。
私が今迄直接間接に聞き知つた夫人達の行為は或は態度はあまりにはがゆいものであつた。
私達もこれからはたヾ「妥協せざる熱心と勇気と決断」に依つて、私達の正当な位置を取りかへさなければならない。
そうしてやがて私達の「質」が「数」と「量」をもあはせ収め得るであらう。
(三、十一、二七)
(「雑感」/『青鞜』1914年12月号・第4巻第11号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p140~141)
大杉は野枝の書いたこの文章をいちいち首肯しながら読んだ。
大杉は野枝と面会したときに、自分たちの主義とか運動とか同志とかについての深い話はせず、電車の飛び乗り飛び降りをして尾行の刑事をまくとか、笑い話ぐらいしかしなかった。
それなのにどこで見聞きしたのか?ーー大杉はそれが不思議だった。
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image