2016年04月26日
第125回 引き継ぎ
文●ツルシカズヒコ
一九一四(大正三)年十一月、平塚明『現代と婦人生活』が出版されたが、野枝はその「序」を書いた。
らいてうさま、
ほんとうに私は嬉しうございます。
私はあなたの第二の感想集が出版されるのだと思ひますとまるで自分のものでも出すやうな心持ちがいたします。
最近の私達の生活を知つてゐるものは私達自身きりですわね、私たちは私たちの周囲の極く少数の人をのぞく他の誰からも理解や同情など云ふものを得ることは出来ませんでしたね、まるで私だ(ママ)ちの周囲は真暗でしたもの。
疑惑と中傷と誤解と威圧とそして侮蔑と嘲笑と揶揄とが代る/″\に私達を一番親しく見舞つてくれましたわね、けれどもその中からこのあなたの論文集が生まれたのですわね……。
あなたの……最近の生活の努力によつて生れた尊い思想の断片として私は私の能ふるかぎりの尊敬をこの書に捧げます。
(三、一一、八)
小石川にて 野枝
(「序に代へて」/『現代と婦人の生活』・反響叢書第二編・日月社・1914年11月27日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p132)
十一月十三日の夜、らいてうは御宿から上京し、十一月十五日の朝、野枝宅を訪ねた。
自分に『青鞜』の編集や経営の一切を譲ってほしいという野枝がらいてうに書いた第二信の手紙は、らいてうの上京と行き違いになったが、御宿かららいてうの実家に廻送されたので、らいてうはその手紙を読んでいた。
ひと月ぶりに野枝の顔を見たらいてうは、野枝は相変わらず元気いっぱいでピチピチしていると思った。
野枝はらいてうに『青鞜』を引き継ぐ決意を力強く語った。
「一生懸命やってみますから、ひとつ委せて下さい。あなたはなにもしないでいいんです。ただ毎月書くことだけはかならずして下されば。しかし雑誌の署名人だけはあなたに御願いします。責任は何処までもわたくしたちが負います、ご迷惑になるようなことはしないつもりです。編集の方は辻がやるから大丈夫です」
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p552)
らいてうは辻と野枝夫妻の決意はうれしかったが、経営面など楽観しているころがあるのではないかと危惧し、いろいろ注意した。
野枝は雑誌を簡素化し、金銭も切り詰め、自分たちの生活の形式も変えて対応したいと自信たっぷりだった。
しかし、辻にしても野枝にしても事務的な仕事をこなし、継続していけるタイプの人間ではないーーらいてうはそれを知っているだけに、危惧の念は去らなかった。
らいてうは名だけの署名人の件は断り、原稿も書きたいときに書かせてもらうことにした。
二日後、野枝がらいてうの上駒込の家を訪れて事務引き継ぎを行ない、野枝は翌年の一月号から『青鞜』の編集人兼発行人を務めることになった。
青鞜社の所有品全部ーー寄贈の図書、雑誌類、英語や日本語の辞典や書類、名簿「青鞜」の合本、本箱、机、文房具など一切合財、野枝さんの引越し先、小石川竹早町の家へ運んでもらいました。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p553)
らいてうは『青鞜』には、こう書いている。
十七日の昼近くに野枝さんが社に来ました。
野枝さんの眼には自信と勇気と決心の色が輝いて居ました。
私は野(ママ/※野枝)さんに譲り渡し(ママ/※渡した)社の責任と仕事と、所有物の総てを手渡しました。
只創刊号から三週(ママ/※周)年紀念号までーー丁度三年間の『青鞜』各一部を私の手に残して。
午後、社の荷物は野枝さんのお宅に運ばれました。
私は長い間の重荷をやつと卸したやうな気持がしました。
そして私の心には野枝さんに対するある感謝の念が湧いて来ました。
(平塚らいてう「青鞜と私」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号_p133)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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