2016年04月26日
第124回 平民新聞
文●ツルシカズヒコ
大杉と荒畑寒村が編集発行する、月刊『平民新聞』創刊号が発行されたのは、十月十五日だった。
しかし、即日発禁になり、この日の正午、印刷所から持ち運ばれるや否や直ちに全部を押収された。
全紙面が安寧秩序に有害だというのが発禁の理由だった。
起訴はせず、印刷直後に発禁、押収して経済的に追いつめるのが官憲の手口だった。
野枝は『青鞜』で果敢に官憲の批判をした。
大杉荒畑両氏の平民新聞が出るか出ないうちに発売禁止になりました。
あの十頁の紙にどれ丈けの尊いものが費やされてあるかを思ひますと涙せずにはゐられません……。
ふとして私は新聞を読むことが出来ました。
……書かれた事は主として労働者の自覚についてヾある。
私は書かれた理屈が労働者ばかりについてヾなくすべての人の上に云はるべきものであると思ふ。
そしてそれが労働者についてのみ云はるゝときに限って何故所謂その筋の忌憚にふれるのか怪しまないではゐられない。
私は此処に出来ることならその一部丈けでも紹介したいけれどもあの十頁すべてが忌憚に触れたのださうだ。
だからまた転載した罪をもつて傍杖(そばづえ)でも食ふやうな事になると折角私が骨を折つて働いたのが無駄になるから止めと置く。
けれども大杉荒畑両氏にも心から同情いたします。
(「編輯室より」/『青鞜』1914四年11月号・第4巻第10号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p131)
大杉は野枝のこの文章を心からありがたいと思った。
そして大杉は『平民新聞』十一月号・第二号の「発売禁止の反響」の中にこれを転載するようにと、荒畑に言った。
荒畑はいわゆる「新しい女」に妙に反感を持っていたが、すぐにこう書いた。
「凡ての新聞雑誌が大隈内閣の言論圧迫に満足して、本誌の発売禁止に関しては全く口を噤み、本誌の存在すら黙殺しつゝある時、青鞜誌上に独りこの文を見るは、吾々の寧ろ意外とする処である」
(『青鞜』1914年11月号・第4巻第10号「編輯室より」解題/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p462)
しかし、『平民新聞』は第二号も発禁になった。
らいてうによれば、野枝がらいてうに宛てた手紙には、こんな主旨のことが書かれていたという。
自分がつくった雑誌があまり不出来なので、自分にあいそがつきた、出来るなら十二月号の編集はお断りしたい。
尤もこの仕事が自分の生活とピッタリくっついてしまえばいいのだが、あなたの代理としてやるのはやりにくくて困る。
もしあなたが『青鞜』の編集、経営のすべてを私共の手に委して下されば、もう一度覚悟し直して、辻と一緒に出来るだけやってみてもいいと思う。
この際、むしろ、思いきって、『青鞜』をあなたの個人誌としてあなたの生活と仕事を統一して再出発されるがいいと思う。
とにかく冷静なあなたの判断を待ちます。
そのうちには、私の考え方もちがってくるかもしれません。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p550)
野枝はらいてうに宛てた手紙について、こう書いている
十一月号の編輯をしてゐる間に私はいろいろなことを考へました。
私は充分に働かうといたしましたけれど家のことや子供に大部分の時間をそがれてどうしても思ふやうに動けませんでした。
そうして遅れながら雑誌が出来上つたとき私は私の仕事の間抜さ加減がいやになつて仕舞ひました。
そのみすぼらしさがかなしくなりました。
私は何を考えるひまもなく直ぐに御宿の平塚氏の処へ長い手紙を書きました。
それは重(おも)に雑誌が不出来なこと…こんな事では駄目だから十二月号の編輯もお断はりしたいと云ふこと……。
それから……思ひきつて平塚氏に雑誌をすつかりあなたのものにして……経営なすつたらどうでせう。
私はそれが一番最上の方法だと思ひます。
けれども……続けていゆく上にあなたが真実に苦痛をお感じになれば……私に全責任を負はして頂いて私の仕事としてもよろしう御座います。
然し今のやうな状態では……私のやつてゐることがどつちつかずで……あなたに対する心づかいが私自身を不快にしていけませんからとても十二月号は出来さうもありません。
と云ふやうなことを書き送りました。
(「『青鞜』を引き継ぐに就いて」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p151)
野枝の手紙の内容はかなり錯綜していたが、らいてうは野枝に返事を書いた。
十二月号は、あなたが一たん引受けたことであり、とにかく今のままでやって下さい。
無理なことはよくわかっています。
これからのことは今考えています。
わたくしの考えがまとまるまでしばらく待って下さい。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p550)
らいてうは『青鞜』を出し続けることに伴う雑事に振り回されることが苦痛だった。
『青鞜』以外の雑誌に原稿を書いて、原稿料を稼ぐ必要にも迫られていた。
らいてうは奥村とふたりで勉強したり、原稿を書いたりという自由な生活を望んでいたので、『青鞜』はここできれいに廃刊すべきだと考えた。
しかし、苦労して育ててきた雑誌の未来を、自分ひとりの考えで断つのも残念に思われたので、ともかく、らいてうは野枝に会いよく話してみようと思った。
らいてうから返事を受け取った野枝は、十二月号はいったん引き受けた仕事なので編集作業にとりかかることにしたが、次第に『青鞜』の仕事を自分が引き受けてもよいと考えるようになった。
そして、らいてうに第二信を書いた。
私はこれから十年ひとりで忙しい思ひをした処でまだ三十だ。
まとまつた勉強はそれからで沢山だ。
十年のうちには少しは手伝ひをしてくれる人位は出さうに思はれます。
そう思つて私は私の仕事にしてやつて見る気になりました。
……私は私の心持をありのまゝに書きました。
……私はいろいろな誤解をのぞく為めすべての責任は私が背負ひます。
ただ署名人にかゝるやうなことは決していたしませんから署名人にはあなたになつて頂きたいと云ふことを書きました。
(「『青鞜』を引き継ぐに就いて」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p152)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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