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2016年04月16日

第86回 アルトルイズム






文●ツルシカズヒコ


 一九一三(大正二)年六月二十八日の朝、辻はその日の夕方に開かれる南盟倶楽部の音楽会に来るようにと、切符を置いて出かけた。

 野枝は落ちつかない気持ちで部屋の掃除をしたり、そこらの書物を引っ張り出したりしていると、思いがけなく木村荘太からの手紙が来た。

「一度お会ひしたい」と書いて昨日、投函した手紙の返事にしては早いなと思いながら野枝は開封した。

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 ……ある尊敬する、友達に宛ててかういふ葉がきを書きました。

「恋が終つた。ロストに終つた。この数日間僕は随分よく生きた。毎日手紙を書きつづけた。それで今日その返事が来た。その返事で以て僕の運命が定まつた。がしかし僕は大きなものを得た。僕は女の真実を得た。僕はちつとも今苦しくはない。といふのは嘘であるかも知れない。苦しい、苦しい。 けれども僕には、その苦しさを蔽ふ力と明るさがある。……」

 今これを書いてゐる時、窓の外には真黒な八ツ手の葉の上を風が渡つて、その風が私を蘇らすやうにして頬に触れます。

 さうです。

 私は蘇へる思ひです。

 あなたと、あなたの方とそれから私と、この三人の関係が今私にはハッキリと解るのです。

 今の私の気持は前便の手紙を書いた私とはかなり違つてゐます。

 私のあなたに懐いたラヴはもう消えました。

 この数日間あはたゞしい激越な短命な生き方をしたラヴはもう終りました。

 ……私はアルトルイズムとイゴイズムとが完全に一致する事を信じてゐる一人です。

 ……さういふ思想が世界の基督以来の最大な思想であるのを信じようとする一人です。

 この信念が今私には自身のラヴを終らしめよと命ずるのです。

 ラヴからかう云ふ友情へ私の心はこの数時間のうちに至極自然な推移をしました。

 ……それは不自然なセルフ、サクリファイスのためでもなんでもありません。

 少しもフオオスド(forced=強制/筆者註)されたものではありません。

 あなたの方に対する手紙を同封します。

 それには凡ての経過をあなたがその方に御話し下すつた事を予想した上で書きます。

 ではこれで失礼します。              

 二十六日夜半


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p212~216/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p53~55)





 荘太は辻宛てに同封した手紙に、こう書いた。


 拝啓 未知の私からして、あなたにこの度の一切の事をお詫びを申し上げます。

 ……さうしてあなたが最初から私を信じて居て下すつた事を此上なく感謝致します。

 今私には私(ひそ)かにあなたの信認に背かなかつたと云ふだけの自信があります。

 野枝さんと私とはこの数日間自由な信実な接触を致しました。

 さうしてよくお互いの境界をすつかり領解し合ひました。

 ……私はシンシアリティを自己の最大の宝にしたく思つて居ります。

 いつかあなたと自然にお会ひする時が来るかも知れません。

 私はその時少しも蔭を伴はずしてお会ひが出来る事を期します。

 ほんとうにあなたには私は非常な感謝を致します。

 六月廿六日夜


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p216~217/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p55)





 野枝は荘太が本当に尊敬すべき真率な人格者であり、事件の幕切れが非常に心地よいものに思えた。

 野枝の心は明るく晴れかかってきたが、黒い小さなかたまりが浮かんできた。

 「私はあなたにどうしてももう一度お会ひしたいと思ひます」と書いて出した昨日の手紙である。

 もう荘太に会う必要はないから、それを伝えようと野枝はペンを執った。

 しかし、あの手紙は荘太の平静な心を翻してしまったかもしれない、大急ぎでその取り消しを書かねばならない、手紙はもう着いているだろうか、もう手遅れかもしれない……。

 焦った野枝の頭は混乱し、ペンは動かなくなった。

 野枝は返事を待って弁明し、辻にもそのときに説明することにした。

 義母の美津や義妹の恒が昼寝している間も、野枝は机の前に立ったり座ったりして落ちつかなかった。

 辻のあのたまらない暗い顔が浮かんできて涙を流した。





 荘太の「牽引」によればこの日、六月二十八日、荘太は牛込の千家元麿の家で昼ごろ目を覚ました。

 前日の二十七日、荘太は千家の家に行き、岸田劉生岸田辰彌兄弟などがいたので徹夜で話し込んだ。

 荘太は自分がラブアフェアの渦中にいることをみんなに話した。

 荘太は、千家の家でも野枝に手紙を書いた。


 自分は前便の手紙で尚いひ洩らした事があるのを感じてゐる。

 そして自分はある責任を覚えつつあなたにその事を話したく思つてゐる。

 それはあなたの幸福に更に資さうとするためだ。

 就いては至急御都合で今一度御会ひしたい。


(木村荘太「牽引」/『生活』1913年8月号)


 という旨を書いた。


 夜、手紙を投函せずに下宿に帰ると、野枝からの手紙が来ていた。

 女中に聞くと昼ごろ届いたという。

 荘太は中味はともかく、野枝から手紙が来たことがうれしかった。

 一気に目を通すと、荘太の心は跳ね返るように弾んだ。

 これは野枝からのまぎれもない恋文だと思った。





 荘太は一昨日に受け取った二通の手紙を読み返してみた。

 原稿紙にペンで書かれた「二十五日夜九時」の手紙には「私は心からあなたを愛します。本当に、本当に心から」とあり、墨文字で書かれた「六月二十四日」の手紙には「親しいお友達として御交りして頂き度いと思ひます」とある。

 荘太はここで自分が勘違いしていたことに気づいた。

 荘太は「二十五日夜九時」の手紙を最初に読み、それから「六月二十四日」の手紙を読んだ。

 日付けが書いてあるから間違えようもないのだが、興奮していた荘太は野枝の最後の答えが「六月二十四日」のものと思い込んでいたのである。

 そして三通の手紙の内容を日付けの順番に添って読み返した荘太は、「あなたと離れて行く事が非常に哀しく思はれます」という野枝をこのままにしておいていいのかと思った瞬間、自分の恋も強烈に盛り返すのをひしひしと感じた。

 荘太にはひとの女を取ったり、ひとの女を自分に引き寄せようという興味はなかったが、荘太自身が心を寄せその心を寄せる男の価値を女も感じて向こうから身を寄せてくるならば迎えようと思った。
 
 この結合を妨げるものは何もないはずだ、同棲している男にだってーー荘太はそう考えた。

 荘太はまだ投函していない手紙の余白にこう書き加えた。





 今御手紙を拝しました。

 御出で下さい。

 御待ちします。

 来なければいけません。

 あなたはほんとに生きられるのです。

 どうしても来なければいけません。

 必らず必らず。

 恐れてはいけません。

 僕はあなたを生かします、明二十九日夜分から三十日の夕方までは僕は必ず在宅します。

 是非来なければいけないのです。


(木村荘太「牽引」/『生活』1913年8月号)





 荘太は下宿の道筋の図を書き添え、家を出て投函した。

 そして築地行きの電車に乗った。

 電車の中で荘太は野枝からの手紙の消印を調べてみた。

 二十八日午前八時と十時の間に巣鴨を出て、麹町へは十時と十二時の間に着いている。

 荘太が野枝と辻宛てに書いた手紙を投函したのは二十七日の昼少し過ぎだった。

 自分の書いたすべての手紙を野枝は読んいるはずだと、荘太は思った。

 荘太が黒髪橋の先の福士幸次郎の家へ着いたのはもうだいぶ遅くなってからだった。

 荘太は福士にもまた一切のことを話した。





★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)






●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 13:57| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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