2016年04月12日
第79回 文祥堂
文●ツルシカズヒコ
一九一三(明治三十六)年、六月十八日。
「動揺」(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p27)によれば、その日の朝、野枝と辻はいつものように、辻の母・美津や妹・恒(つね)より遅れて起きた。
ふたりともまだ寝衣(ねまき)のままのところに、木村荘太からの第二信と帯封の『フュウザン』六月号が届いた。
野枝は手紙に目を通し、辻に渡した。
辻が野枝より先に『フュウザン』を読みたいと言ったが、野枝はそれを拒んで、辻が外出してから読み始めた。
荘太が寄稿した「顫動(せんどう)」を読み終えた野枝は、真実なある力がズーッと迫ってくるように感じた。
そして、保持が言っていた「若い人」という感じがしなかった。
染井の林の緑が日増しに濃くなり、田圃の菖蒲(しょうぶ)も半ば咲き始めた。
六月十九日、野枝はらいてうの書斎を訪ね、荘太のことをちょっと話した。
翌六月二十日、金曜日、青鞜社事務所に社員が集まった。
野枝とらいてうは以後、しばらく会う機会がなかった。
六月二十六日、らいてうは奥村と赤城山に向かったからである。
六月二十三日の朝、野枝は今月は校正を少し早く切り上げるから、二十六日まではかからないかもしれないという旨の葉書を荘太に書いた。
先に家を出る辻に、それを投函してもらうことにして、辻が家を出た後、野枝は文祥堂に行った。
文祥堂には哥津が来ていた。
以下、「動揺」と「牽引」の記述に沿って、野枝と荘太の初対面のようすをみてみよう。
その日、徹夜仕事が続いていた荘太は昼ごろに起きた。
野枝からの葉書が届いていた。
荘太はすぐ弟の下宿へ行って文祥堂へ電話をかけた。
電話がかかっていると知らされた野枝は、東雲堂(とううんどう)からだろうかと思いながら、二階の校正室から階下に降りて行った。
「木村荘太です。今、お葉書を拝見しました。もしお差し支へなければ今日これからお伺いしたいと思いますがいかがでしょう」
野枝はちょっとびっくりしたが、落ち着いた声で答えた。
「ええ、どうぞいらして下さいまし。暇でございますから」
二階の校正室に戻った野枝は、涼しい窓際に椅子を置いて、哥津の持って来た小説を読みながら荘太を待った。
荘太はすぐに下宿を出て築地の文祥堂に向かった。
途中、電車の中でも通りでも「暇でございますから」という快い訛りのある声が耳の底に響き続けた。
荘太が文祥堂に着いたのは午後三時ごろだった。
荘太が来たことを知らされた野枝が階段を降りて行くと、金縁眼鏡をかけた荘太は帽子を取ってお辞儀をした。
荘太の髪はきれいに分けてあった。
野枝もお辞儀をして、ふたりが簡単に挨拶をすませると、野枝が荘太を二階の校正室に案内した。
ふたりは二階のテーブルに向き合って座った。
この日、野枝は眼鏡をかけていた。
さほどの近眼ではない野枝は普段めったに眼鏡はかけなかったが、校正に行くときにはかけていた。
髪を銀杏返しに結った哥津は窓際の椅子にもたれて、何か小説を読み始めた。
荘太は文祥堂二階の校正室に案内された際のことを、「牽引」ではこう記している。
とうとう文祥堂の前へ行つた。
僕は入り口に近づいた時、二階の窓のところに依りかか つてゐる後ろ向きの人の髪の毛をチラリと見た。
胸が躍つた。
這入つて、聞いて、暫らく 店先に佇んでゐて待つと、その人が階段を降りて来た。
簡単に挨拶をして、僕はその人の後から階段をつづいて登つて、校正室へ這入ると、そこにはもう一人婦人がゐた。
僕にはそれが小林歌津(小林清親の娘)だと直ぐに解つた。
歌津氏は窓際の椅子に靠れて何か小説を読み始めた。
僕は中央にある大きな卓を隔てて、 野枝氏とはす~ ゙に対ひ合つた。
僕は野枝氏がまだ極く子供らしい感じの人であるのを少し意外に思つた。
暫らくするうちその意外なのが却つてシックリその人に合つてゐるらしく思はれて来た。
(木村荘太「牽引」/『生活』1913年8月号)
『魔の宴』では、こう記している。
……二階の校正室に通されて、机を隔ててそのひとと向い合つて腰かけると、室にはもうひとり若い女のひとがいて、離れた窓際に立つて行つた。
髪を銀杏返しに結つた日本風の姿のひとで、明治年かんに名高い版画家、小林清親のむすめの小林哥津さんとあとで解った。
私と向い合った当のひとのほうは、豊頬(ほうきょう)な丸顔に髪を無造作に束ねて結って、洋銀ぶちの眼鏡をかけ、なりは目立たぬ質素なふうで、単衣(ひとえ)の上に木綿の被布(ひふ)のようなものを着ていた。
どこかの女工さんといつたぐらいの身なりに見えて、飾りなく、それだけに素顔のなりの顔がそのまま目について、生地を蔽(おお)う付属物がなにもないといつたような感じのひとだつた。
(木村艸太『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想』_p203/『日本人の自伝18 木村艸太・亀井勝一郎』_p165)
野枝はこのとき妊娠七ヶ月だった。
六月末の暑い時節に薄い被布を着ていたのはそのためであるが、『魔の宴』によれば荘太は野枝の妊娠に気づかなかった。
話しているうちに、荘太は野枝に対してこんな感想を抱いた。
その時目の前にゐたのは全然僕の想像と違つた人だ。
あまりにその人の若かつた。
あまりに生地のまま過ぎた。
確かな口調で淀まずぐんぐん自分の事を話す態度――さうしてしかも目が出会ふ時々眞赤になつて下を見てうつむく様子――でまたある時紅潮しながらキッと目を僕にそそいでゐて語り継ぐさま――かういふ態度の矛盾がすべて自然に一つにこの人に結合した印象となつてゐる不思議なチヤアムが、直ぐ僕の心を牽いた。
(木村荘太「牽引」/『生活』1913年8月号)
野枝は初対面の荘太にこんな印象を持った。
私は、木村氏の外観とか風采について、いろ/\……想像したり、なんかしてゐませんでしたので、すべて、知らないうちで、不用意に、未知の人に会つたやうな気持ちでした。
座についてからも私は何を話していゝのか分りませんでした。
暫くしてから、其の人は、可なり低い声で私に手紙を出した動機とか気持ちと云ふ事を話し出しました。
しかしその調子は極く軽くて、そして、口早やなので、私の方には、何にも、来るものがありませんでした。
態度には可なり落ち附いた処が見えないでもありませんのに、一寸、変な気がし出して来ました。
(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p163/『定本 伊藤野枝全集 第一巻_p28)
野枝は「動揺」で自分が妊娠中だという言及をまるでしていないが、らいてうはそのあたりをこう指摘している。
女自身は自分の妊娠といふことに対して元来これ程無意識なものなのであらうか。
お腹の中にゐる子供とそれほど無関係でゐられるものなのだらうか。
之れでまたいゝものなのであらうか。
自分に経験のないことを口にするのは僭越かも知れないが、一寸不思儀でならない。
(平塚らいてう「『動揺』に現はれたる野枝さん」/『青鞜』1913年11月号・3巻11号_p88)
※東京DOWNTOWN STREET 1980's「兄荘太から解き明かす荘八」
※木村荘八の作品/青空文庫
★木村艸太『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想』(朝日新聞社・1950年5月30日)
★『日本人の自伝18 木村艸太・亀井勝一郎』(平凡社・1981年12月10日)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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