2016年07月13日
第293回 婦人労働者大会
文●ツルシカズヒコ
第一次世界大戦の講和会議によって創設されたのが国際労働機関(ILO)だったが、その第一回国際労働会議が一九一九(大正八)年十月二十九日、ワシントンで開催されることになった。
その日本代表団の労働者代表が、政府の選出によって鳥羽造船所工場長・桝本卯平に決まったことから、友愛会をはじめとする労働団体の一大反対運動が起きていた。
第一回国際労働会議では、婦人の深夜業禁止や産前産後の休暇など、婦人関係の議題が含まれることになっていたので、政府代表の婦人顧問として田中孝子が任命された。
財界人の渋沢栄一の姪であった田中に対する、労働側からの風当たりも強かった。
婦人顧問の田中に婦人労働者の実状や要求をよく聞いてもらう目的で開催されることになったのが、友愛会婦人部主催による婦人労働者大会だった。
婦人労働者大会が本所区の業平小学校で開催されたのは、十月五日の夜だった。
平塚らいてうや野枝が来賓として招かれていた。
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(完結篇)』によれば、十月五日の夜は東京に台風が接近する前ぶれでひどい吹き降りだったが、横殴りの雨に濡れながら、らいてうは会場に出かけたという。
あいにくの雨にもかかわらず、業平小学校の雨天体操場は五百人以上の聴衆に埋め尽くされ、半数以上は婦人労働者だった。
司会は友愛会婦人部の常任書記・市川房枝、富士紡、東京モスリンなどの婦人労働者九名が演壇に立った。
東京モスリンの女工で友愛会理事の山内みなが、演説のしんがりを務め、草稿なしで熱弁を振るった。
らいてうは六年前の青鞜講演会を思い出していた。
あのときの聴衆はこれよりは多かったとはいえ、その三分の二は男性で、婦人の姿は男子とくらべようもないさびしさでした。
演壇に立つ人も……男性講師が主で……。
あのときにくらべて、今こうして女工の代表が演壇に立ち、「夜業禁止」「八時間労働」など、自分たちの当面の訴えを、次つぎにくりひろげる姿に、わたくしはおどろくほど早い時代の変化と発展をおもうのでした。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(完結篇)』_p55~56)
弁士の中にはまだ着物の肩揚げもとれない小娘もいれば、髪を銀杏返しに結い背に赤ん坊をおんぶした子持ちの婦人労働者もいた。
演説は草稿の朗読ではあったが、「おッ母ァうめえぞ〜」といった野次にも臆することなく、自分の要求を主張する婦人たちの姿に、らいてうは感動を抑えかねた。
山内みなの演説が終り、当時流行した霰(あられ)模様のお召しの着物、黒紋付きの羽織姿の田中孝子が壇上に立った。
「自分は決して労働生活を知らないわけでなく、アメリカでは女中のような経験もしたし、木の実取りをして働いたことある……」と話し始めると、猛烈な野次が聴衆の間から飛び交った。
この騒ぎは司会役の市川房枝の仕切りでひとまず収まったが、騒ぎは閉会後の控え室に持ち越された。
野枝が主役となった控え室でのこの騒動を、山内みなはこう回想している。
控室へもどってきた田中孝子女史に向って、伊藤野枝さんは「あなたのようなブルジョア婦人は日本の婦人労働者のことなどうんぬんする資格はない、国際労働会議に行くことをおやめなさい」と、たいへんな剣幕で詰めよりました。
田中さんも怒って、「あなたにそんなこと言われるおぼえはない」と激論になりました。
市川さんは、「ここでそんな議論はこまる、やめて下さい」といってやめさせました。
こんどは野枝さんは私のところにきて、「あなたは労働者だから、労働者はどうしたら解放されるか勉強しなさい、社会主義でなければだめだということがわかるでしょう、本を送ってあげます。」と言いました。
書記の菊地さんがそばで聞いていて、「会社はだめです、この子がクビになります。友愛会本部へ送って下さい」といった。
本部へ送ってきたのですが友愛会では私に見せませんでした。
その後しばらくたってから、会長鈴木文治氏が「みなちゃん、社会主義者に近づいてはいけないよ、おそろしい連中だから」と言いました。
(『山内みな自伝 十二歳の紡績女工からの生涯』)
らいてうが野枝の姿を見るのは、三年前、あの日蔭茶屋事件が起きる二日前、大杉と野枝が茅ケ崎に住んでいたらいてうを訪ねて以来だったが、控え室の騒動をらいてうはをこう記している。
ちょうどわたくしが帰りぎわにみんなに挨拶しようと控え室にいたときのことですが、突然、伊藤野枝さんが気色ばんだ見幕でそこに入って来ました。
彼女は、そこにいるわたくしをジロリと睨みーーまさにそんな感じの一瞥をくれて、むろん部屋のなかのだれに挨拶するでもなく、いきなり田中孝子さんのそばに行くと、「婦人労働者の経験のないあなたに、婦人顧問をつとめる資格はないのだ。一刻も早くおやめなさいーー」といった意味の言葉を、烈しい見幕で浴びせかけました。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(完結篇)』p56~57)
らいてうは野枝の憎体(にくてい)な言動にただ目を見張った。
野枝は縞の着物に黒紋付きの羽織を引っ掛けていたが、らいてうはそんな格好の野枝を見るもの初めてだった。
昔の娘らしいふくよかな面影がすっかり消え、ひどくトゲトゲしく、なんにでも突っかかり、誰にでも食ってかかるといったその日の野枝が、らいてうの目には未知の別人に映った。
しきりに言い募る野枝をたしなめる気持ちもあって、らいてうはひとことだけ言葉をはさんだ。
「工場で働く労働者のほかは労働者でないように言うのは間違いでしょう……」
罵倒といった感じで、自分のいいたいことを言うと、野枝はらいての言葉など黙殺したまま、プイと背を向けて出て行った。
らいてうは、野枝が大杉のもとへ走ってから折りにふれて聞こえてくる噂を思い浮かべた。
野枝が大杉の運動を助けて、あちこち金策に歩いていることはらいてうもしばしば耳にしていた。
後藤新平からお金を引き出した話も、大杉との間に生まれた子供に「魔子」と命名したことも、らいてうは知っていた。
なお、野枝は十二月に次女・エマを出産するが、らいてうはこのときに見た野枝のお腹がだいぶふくらんでいたと記している。
その後、らいてうと野枝に再会の機会は訪れず、この日の遭遇がふたりの永訣(えいけつ)となった。
野枝は婦人労働者大会について、こう書いている。
十月五日、本所区業平(なりひら)小学校で友愛会婦人部主催の婦人労働者の演説会があつた。
婦人労働者主催の此の種の演説会は先づこれが我国最初の催しであらう。
恰(あたか)も此の夜はワシントンに送る労働会議代表者桝本卯平(ますもとうへい)氏の労働者大会が明治座で催された夜であつた。
此の演説会も、政府側の婦人顧問田中孝子氏を招待して、大いに日頃持つてゐる不平不満を聞いて貰つて参考にして欲しいと云ふ、婦人労働者達の希望に出たものであつた。
招待された田中孝子氏は後(おく)ればせに女工諸氏の大半の演説が済んだ頃出席して、最後にその婦人顧問を引き受けた覚悟に就いて説明があつた。
当日広い会場の半数以上は婦人労働者諸氏によつて一杯に埋められた。
恐らくは五百人以上の出席者であつたに違ひない。
演壇に立つては、思ひ/\に、その要求がそれ/″\の理由をもつて提出されたが、帰する処は、労働時間の短縮、夜業廃止、の二つであつた。
大部分の諸氏は多勢の聴衆の前に立たれたのは始めてである為めか、皆多少の臆し気味があつて、草稿の朗読で終つて、期待した真の熱烈な叫びと云ふ風なものははかつた。
しかし、大多数の人達の要求が期せずして前記の二問題に落ち合つた処を観れば現在の紡織の婦人労働者が、何(いか)に最も苦しみつゝあるかは明瞭に看取する事が出来る。
賃銀問題に就いて、其の能率の上から、男子と同等の額をと主張したのは山内氏一人のみであつた。
政府が労働代表及び顧問に就いて婦人労働者を全く黙殺した事に対して確(し)つかりした批難を堂々と述べた野村つちの氏の演説と共に、当夜記者の印象に最も強く残つたのはそれであつた。
(「婦人労働者大会」/『労働運動』1919年11月13日・第1次第2号/學藝書林『伊藤野枝全集 下巻』に初収録/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p106~107)
野村つちの(富士紡)は山内みな(東京モスリン)とともに、友愛会理事を務めていた。
野枝はこの原稿を『労働運動』には無署名で寄稿、あくまで一記者としてリポートしている。
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(完結篇)』(大月書店・1973年11月16日)
★『山内みな自伝 十二歳の紡績女工からの生涯』(新宿書房/1975年12月)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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