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2016年08月10日
第320回 コミンテルン(三)
文●ツルシカズヒコ
大杉が上海に着いたのは一九二〇(大正九)年十月二十五日ごろだったが、その翌日、ヴォイチンスキー(ロシア共産党の極東責任者)、陳独秀(中国共産党初代総書記)、呂運亨(大韓民国臨時政府外交次長)ら六、七人が一品香旅館にやって来た。
それから二、三日おきに陳独秀の家で会議を開いた。
支那の同志も朝鮮の同志もヴォイチンスキーの意向にほぼ賛成しているようだったが、大杉はそういうわけにもいかず、会議はいつも大杉とヴォイチンスキーの議論で終始した。
……僕は、当時日本の社会主義者同盟に加わっていた事実の通り、無政府主義者と共産主義者の提携の可能を信じ、またその必要をも感じていたが、各々の異なった主義者の思想や行動の自由は十分に尊重しなければならないと思っていた。
で、無政府主義者としての僕は、極東共産党同盟に加わることもできずまた国際共産党同盟の第三インタナショナルに加わることもできなかった。
(大杉栄「日本脱出記」/『改造』1923年7月号/『日本脱出記』・アルス・1923年10月/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)
ある日、ヴォイチンスキーはふたりで会いたいと言って、大杉を自宅に招いた。
金の話だった。
どんな計画があり、それにはどれくらいの金が必要なのかと問われた大杉は、週刊新聞を出したいが一万円あれば半年は支えられるだろうと答えた。
当時の一円を今の六百円として換算すれば、当時の一万円は今の六百万円ということになる。
金は貰えることになったが、ヴォイチンスキーは大杉と幾度も会っているうちに、新聞の内容について細かいお節介を出し始めた。
大杉は自分が上海に来たのは金をもらうためではなく、東洋各国の同志の連絡を謀るためであり、それができさえすれば各国は各国で勝手に運動をやればよい、これまでも日本は日本でやってきたし、これからもそうしていくつもりだ、条件つきの金など不要だとヴォイチンスキーに伝えた。
ヴォイチンスキーと大杉は英語で話していたが、大杉はこの話のときは特に紙に書いてヴォイチンスキーに自分の意志を明確に伝えた。
ヴォイチンスキーは承諾し、一般の運動の上で必要な金があればいつでも送ると約束し、大杉がいよいよ帰国する際に二千円を大杉に渡した。
上海滞在中、大杉は三、四軒のホテルに十日ほどずつ泊まった。
同じホテルに長くいると危ないからである。
ホテルが代わるたびに、大杉は支那人の変名を使ったが、その漢字を支那音でどう発音するかわからなかったので、戸惑ったようだ。
ホテルのボーイとの必要最少限のコミュニケーションは、英語で誤魔化した。
近藤憲二『一無政府主義者の回想』によれば、中国国民党の要職にあった張継が、大杉が滞在している上海のホテルを訪問、ふたりは十数年ぶりの再会を果たしている。
張は日本に留学中、無政府主義に傾倒し大杉と親交を結んでいた。
大杉が行方不明になっている間、日本ではいろいろなデマが飛び交った。
北信の温泉へ原稿書きに行っているとか、いや上州の温泉だとかといううちは罪がなかったが、それがシベリアになり、ロシアになり、お伽噺はさらに進んで、ロシアから時価十五万円のプラチナの延棒をもってきて十二万円で売ろうとしているとの噂まで飛んだ。
そのうち大杉が有楽町の電車通りに面した「露国興信所」の看板のかかった家、実はロシア人の下宿屋へ越したから、それ見ろ、やっぱりということになったのである。
(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p226)
矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、大杉が鎌倉の家を留守にしている間、野枝は魔子を連れて福岡に帰省した。
戻ればいつものごとく、今宿の実家と従姉千代子宅と代準介・キチの家を行き来している。
……今津湾の潮風で英気を養う。
当然、刑事たちは見張っており、村の防犯にも結果役立っている。
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p144)
代準介は大杉一家が引っ越すたびに土産を携えて上京し、野枝の家に顔を出し、その暮らしぶりを心配していた。
当時は福岡から東京までは丸二日かかった。
早朝出れば一泊二日だが、遅く出れば二泊三日である。
博多から門司港へ、そこから関門連絡船に乗り下関へ。
下関から汽車に乗り、大阪で下車して一泊。
翌朝、大阪から東京行きの東海道本線に乗るのである。
野枝は代準介が上京すると、必ず駅まで出迎えていたという。
野枝は生活に困窮すれば先ず実家よりも叔父叔母を頼る。
野枝は幼い頃から、実の親よりも叔父叔母に遠慮なくわがままを言って育ってきた。
上京の叔父をいつも駅まで出迎えていたのは、姪というより、娘としての感情のほうが強かったからであろう。
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p145)
十一月二十三日、第二回黒燿会展覧会が京橋星製薬ビル七階で開催され、主催者の望月桂、堺、大杉、山川菊栄などの作品が展示されたが、警視庁の検閲が入り作品撤回問題が起きた(『日録・大杉栄伝』)。
『日録・大杉栄伝』によれば、大杉が上海から自宅に戻ったのは十一月二十九日の夜だった。
翌日、鎌倉署から警官が臨検に来たが、彼らの目的のものは何も発見されなかった。
帰国した大杉は上海での顛末を堺と山川に報告した。
帰るとすぐ、僕は上海での此の顛末を、先ず堺に話しした。
そして堺から山川に話しして、更に三人で其相談をする事にきめた。
そして僕は、近くロシアへ行く約束をして来たから、週刊新聞も若し彼等の手でやるなら任してもいゝ、又上海での仕事は共産主義者の彼等の方が都合がいいのだから、彼等の方でやつて欲しい、と附け加へて置いた。
が、それには、堺からも山川からも直接の返事はなくて、或る同志を通じて、僕の相談には殆んど乗らないと云ふ返事だつた。
(大杉栄「日本脱出記」/『改造』1923年7月号/『日本脱出記』・アルス・1923年10月/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)
★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)
★『大杉栄全集 第13巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)
★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第319回 コミンテルン(二)
文●ツルシカズヒコ
上海で開かれるコミンテルン極東社会主義者会議に出席するために、大杉が鎌倉の家を出たのは、一九二〇(大正九)年十月二十日の夜だった(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。
近藤憲二『一無政府主義者の回想』によれば、この日、近藤は大杉と上海行きの打ち合わせをすることになっていた。
鎌倉の大杉の家に行くために新橋駅のホームで列車を待っていると、信友会の桑原錬太郎と遭遇した。
桑原も大杉に会いに行くという。
正進会が十五新聞社のストライキを敢行し、惨敗したばかりだったが、その経過報告書を大杉に書いてもらうためだった。
近藤は困ったことになったと思った。
この夜、大杉は鎌倉の家から極秘に抜け出すことになっていたからである。
近藤が桑原と鎌倉の大杉の家に行くと、大杉は早い夕食をすませて、トランクに手まわり品を詰めていた。
「どこかへ行くんですか?」
桑原は困ったような顔をした。
「何か用だったかね」
「ええ、争議の報告書を書いてもらおうと思ってきたんですが……」
近藤はこんなときに大杉がなんというか、興味深くふたりの会話を聞いていた。
ところがどうだ、大杉は言下に答えた。
「よし、では手っとりばやく内容をいってくれ」
私はいささかあきれた。
いま出発しょうとするまぎわに、面倒な報告を書こうというのだ。
大杉はひと通り聞き終わってから書斎へひっこみ一時間あまりして出てきた。
「これでいいか読んでみてくれ」
そういって、また書斎へひっこみ、こんど出てきたときには、いちばんの特徴である山羊ひげをそり落としていた。
もっとも簡単な変装をしたのである。
(近藤憲二『一無政府主義者の回想』)
大杉の家の前には尾行小屋があり、絶えず尾行が三人で見張っていたが、近藤がこの尾行の注意を引きつけている間に、大杉は桑原にトランクを持たせ家を抜け出た。
「日本脱出記」によれば、ふたりは鎌倉駅ではなく、一里ばかりある大船駅に足早に向かった。
もう夜更けだつたが、ちよい/\人通りはあつた。
そして家を出る時に何んだか見つかつたやうな気がしたので、後ろから来るあかりは皆な追手のやうに思われて、二人とも随分びく/\しながら行つた。
殊に一度、建長寺と円覚寺との間頃で後ろからあかりをつけない自動車が走つて来て、やがて又それらしい自動車が戻つて来た時などは、こんどこそ捕まるものと真面目に覚悟してゐた。
(「日本脱出記」/『改造』1923年7月号/『日本脱出記』・アルス・1923年10月/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)
その自動車はただ通り過ぎただけで、ふたりは無事大船駅に着き、桑原は東海道線の上り列車に乗り、大杉は下り列車に乗った。
大杉は自分がやっていることの真相を桑原に話せないことをすまなく思ったが、桑原は何も聞かず、そしてこの夜のことは誰にも口外しなかった。
大杉が上海に着くまでは、その筋に知られたくないので、大杉の関係者の間では大杉が病気で寝ていることにした。
しかし、尾行はすぐに疑いを持ち、三歳の魔子をつかまえて聞き出そうとしたが、魔子もまた尾行を撹乱させる巧者だった。
「パパさんいる?」と尾行が聞くと、魔子は「うん」と頷く。
今度は尾行が「パパさんいないの?」と聞くと、やっぱり「うん」と頷く。
おやと思った尾行がまた「パパさんいる?」と聞くと、やっぱりまた「うん」と頷く。
そして尾行が「パパさんいないの? いるの?」と聞くと、「うんうん」とふたつ頷いて逃げて行った。
結局、十日ばかりの間、尾行はどっちともはっきりとさせることができなかった。
大杉は十月二十五日ごろ上海に着いた。
「日本脱出記」には大船から列車に乗った後、上海に到着するまでの記述がないが、おそらく神戸から船に乗ったのだろう。
大杉は旅券は持っていたのだろうかという疑問が生じるが、戦前、日本人が中国へ渡航する際に旅券は必要なかったのである。
上海の街では抗日と反帝国主義を掲げる五四運動が高揚している最中であり、「抵制日貨」という日本の商品をボイコットする札がいたるところの壁に貼り付けられていた。
「日本脱出記」と『日録・大杉栄伝』によれば、上海に到着した日、大杉は上海の朝鮮人町で李増林と会い、李東輝(大韓民国臨時政府軍務局長)と一時間ほど会談、李増林の案内で前週までバートランド・ラッセルが滞在していた一品香旅館に支那人の名前で投宿した。
北京大学客員教授として招かれたバートランド・ラッセルは、十月十二日に上海に到着していた。
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)
★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)
★『大杉栄全集 第13巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index