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2016年08月22日
第330回 チブス
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文●ツルシカズヒコ
伊藤野枝「大杉栄の死を救う」によれば、一九二一(大正十)年二月九日、大杉は有楽町の「病室」から午前中に鎌倉に行き、その晩は自宅に泊まった。
翌二月十日、天気がよかったので野枝、大杉、魔子、そして遊びに来ていた労働運動社の和田久太郎の四人は、馬車で金沢に遊びに出かけた。
金沢は当時、神奈川県久良岐郡(くらきぐん)金沢町、現在の横浜市金沢区である。
その日は馬車の窓を開けていても、ポカポカするような暖かさだった。
二匹の馬に引かれた馬車が、静かな街道を東に進み、馬の蹄(ひずめ)の音が何か心を浮き浮きさせるように響いた。
金沢に着くと、風が冷たいので、野枝たちはちょっと風景を見ただけで引き返した。
大杉は帰る途中、馬車のクッションにもたれてウトウトと眠った。
帰宅すると、三時間あまりも馬車に乗っていたので、野枝も大杉も疲れていた。
夕食をすますと、大杉はすぐに寝てしまった。
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翌日の紀元節は、雨が降り寒かった。
改造社から依頼された原稿の締め切りが迫っていたので、大杉は東京に帰らず書斎に入った。
野枝が一生懸命に書斎を暖めたので、室温はかなり高くなったはずなのに、大杉はしきりに寒がった。
しまいには、ペンを置いてコタツの中に入って寝てしまった。
そこに改造社の秋田忠義が来た。
大杉は東京に帰ることにして、秋田と一緒に鎌倉の家を出た。
野枝は大杉の体調をあまり気にせず、風邪でも引いたのかなと思ったぐらいだった。
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二月十二日の午前中、労働運動社の寺田鼎が大杉からの手紙を携えて、吸入器を取りに来たので、野枝は驚いた。
大杉の手紙にはこう書いてあった。
昨夜九時頃に熱を計つてみたら九度三分あつたので、奥山氏に来て貰つて診て貰つたが、又何だかわからない。
村木を呼んで看護して貰つてゐる。
吸入器を持たしてよこしてくれ。
あなたは来ない方がいゝ。
(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』1921年6月号・第1巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p277)
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とにかく寺田に吸入器を持たせて帰した野枝は、心配でたまらなかった。
来ない方がいいと書いてはあるが、そして自分で手紙を書けるのだからとは思ったが、野枝は九度何分という熱が心配でならなかった。
すぐに行きたいと思ったが、ちょうど女中も風邪で自宅に帰っていた。
半病人の和田と魔子を置いて行くわけにもいかない。
そして、翌日は九州から上京する叔父・代準介が立ち寄ることになっていた。
どうしようと思っているところに、電報が届いた。
五年前に千葉県夷隅郡大原町(現・いすみ市)の若松家に里子に出した、流二が肺炎で重体だから来てくれという。
なにもかも一時に降って湧いたような騒ぎになった。
野枝はまず大杉の病気の具合いを知りたいと思い、留守を和田に頼み、魔子を連れて東京に向かった。
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二月十二日、大杉が臥せっている有楽町の「病室」に着いた野枝は、まずドキッとした。
部屋の扉を開けるなり、部屋中にこもった熱の臭いが野枝の鼻を突いたからだ。
大杉は寝台の上に氷嚢をあてて寝ていた。
部屋の空気がすっかり病室のそれになっていた。
一緒に連れて来た魔子も不安げに父親を見つめていた。
ふたりの姿が目に入った大杉は、
「やあ、来たな」
と元気のいい声で笑いかけ、前日、鎌倉の家を出てからのことをひと通り話し始めた。
鎌倉からの車中、大杉は改造社の秋田忠義とはほとんど口をきかず、眠っていた。
有楽町の「病室」に着くなり、寝台の上に横になり、留守中の新聞に目を通し終わった。
そして、そこで初めてたいぶ熱があるらしいことに気づき、計ってみると九度何分だった。
それまで大杉の熱は七度二三分、五六分あたりを上下していた。
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とにかく、九度を超す熱にびっくりして、女中に近所の知人のところに走ってもらい応急手当をした。
「大杉栄の死を救う」には、「近所の知人」としか記されていないが、おそらく「日比谷洋服店」を営む服部浜次のことだろう。
それから医師の奥山伸に往診に来てもらい、村木を呼んだ。
「なんの病気かわからないって、まだわからないんですか?」
「ああ、わからないそうだ。胸が別に悪くなった訳でもないし、肺炎でもないようだし、何だかまだよくわからないそうだ。腸が少し悪いようだから、ひょっとしたらチブスかもしれないとも言うのだが、今年の流行性感冒は非常にチブスに似た兆候があり、その判断が難しいそうだ」
大杉の話の調子は普段と変わらなかったが、病名がわからないことに野枝は不安を覚えた。
この時点で、野枝には鎌倉に帰ろうという考えがなくなった。
長い間、病身でいる村木の看病で衰弱した真っ青な顔を見ているだけで、野枝は自分がそこを離れるわけにはいかないと思った。
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流二のことは鎌倉から上京する汽車の中で、野枝はこう決断していた。
よしOの病気が左様(そう)でなかつたとしても、楽な東海道線や横須賀線とちがつて房総線の四時間は丈夫な時でさえも考え込む程ですから、もう出産までいくらも間がない体では、とても無事に行きつけるとは想像することが出来ませんでした。
行つて、もし先方で、瀕死の者で忙がしがつてゐる人の手を必要とするやうな事になつてはならないし、殊に病人のOに心配をかけるのもよくないし、という風にいろんな事が、行くことを容易に断念させたのでした。
で私は、何よりも必要なお金を送つてやつて行かれないことを電報で断つて、むかうからの、あとのしらせを待つことにしたのでした。
(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』1921年6月号・第1巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p279)
「せっかく来たついでだ、二日三日看病して行け」
大杉はそう言って笑っていた。
その日の夜、往診に来た奥山の話を聞いた野枝は、ますます心配になった。
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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第329回 新婦人協会
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文●ツルシカズヒコ
一九二一(大正十)年二月一日、『労働運動』二次二号が発刊された。
労働運動社が神田区駿河台北甲賀町の駿台倶楽部内に移ったのは一月中旬だったが、以降、大杉は麹町区有楽町の露国興信所(ロシア人経営の貸しアパート)から、駿河台の労働運動社まで通った。
「病室から」(『労働運動』二次二号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)によれば、大杉は奥山医師からは「絶対安静」を命じられていたが、『労働運動』二次の初号ができるまでは無理をして朝から晩まで社で仕事をしていたので、夕方、有楽町のアパートに帰宅すると氷嚢で胸を冷やさなければならないほど体調が悪化していた。
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『労働運動』二次二号の仕事は有楽町の「病室」(アパート)でやっていたようで、「病室から」には友人同志諸君へのお願いを四つ書いている。
面会謝絶の札がかかっているときには黙って帰ってほしい、面会時間は十分ぐらいにしてほしい、病室内での禁煙、昼はともかく夜の誘いは絶対お断り、以上四つのお願いである。
野枝は『改造』二月号(第三巻第二号)に「中産階級婦人の利己的運動ーー婦人の政治運動と新婦人協会の運動について」を寄稿した。
「婦人参政・拒婚同盟」特集欄の一文である。
平塚らいてうら七名が執筆しているが、「婦人参政」については他に長谷川如是閑が執筆している。
以下、抜粋要約。
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〈一〉
●私は現在の婦人の政治運動には、男子のそれと同様に、なんの興味もありません。
●だから、婦人の政治運動の実際に関しても知識がありませんが、なんの引け目も感じません。
●その気になれば、そんなものの知識などすぐに身につけることができるでしょうから。
●私は婦人の政治運動に関する知識は持っていませんが、その運動の精神に対する理解は持ち合わせているつもりですから、批評をすることはできます。
●婦人参政権運動と言えば、英米の猛烈な示威運動や宣伝を第一に思い浮かべます。
●その団結や意気には感心し、羨ましくも思いますが、あれだけの努力が婦人たちのために実際どれだけ役に立っているのかを考えると、馬鹿らしくなります。
●婦人が参政権を得て政治に参加し、男子の勝手な為政から婦人や子供の権利を獲得し、擁護するのは非常に結構なことだと思います。
●しかし、考えなければならないことは、政治がどこまで信頼できるものかということです。
●現在の政治は立派な理想や希望を受け容れるような、余地を持っているでしょうか?
●ある社会的事業を成し遂げるには、その事業を多数の人に認めてもらうことが必要になり、最も多数の意志によって成り立っているのが政府だから、政府に認めさせるのが最上の方法とされています。
●しかし、「多数」の意志によって決定したことが、民衆の上にどれほど禍をもたらしていることでしょう。
●「もっともよき内容」を供えた「多数」なら問題はないのです。
●けれども、今は「最も多くの人々の心に遍在する醜悪なもの」が「多数」としてまかり通っています。
●すなわち、すべてのことが「数」で決定されていて、内容はまるで問題にされていないのです。
●議院において民衆の代表者である議員はどんなことしているでしょう。
●民衆の真の要求は常に裏切られ、権力や財貨が常に勝利しているのです。
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〈二〉
●英米ことに英国の婦人参政権の運動者たちが、政府の圧力に対して憤激し反抗し戦ったにもかかわらず、彼女たちは政府の権力を認めて政治に頼る道を選びましたが、私の婦人参政権運動に対する最初のそして最大の侮蔑は、それに対してでした。
●女権論者である彼女たちは、権力からの圧迫を、女性の反抗に対する男性の因習的な圧迫だと解釈しているようですが、それは事実に対する正しい観察や批判を欠いていると思います。
●彼女たちは男性が女性に対して与える不平等暴虐は知り抜いていますが、自分たちの親兄弟たちがそれ以上の暴虐を、他の婦人の夫や親兄弟に与えている事実についてはまるで知りもしなければ、考えてみようともしません。
●彼女たちは参政権を得ることができるでしょう。現に獲得してもいます。
●しかし、彼女たちは自分たちの要求がいかに浅薄皮相なものであったか、そしてその努力がいかに徒労であったかを、すぐに知るでしょう。
●彼女たちが本当に婦人や子供たちのために何かをなそうとするならば、参政権の行使ではなく他の手段によらなければならないことに気づくはずです。
●「男子同様に」だけで満足している女権論者は論外です。
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〈三〉
●最近、新婦人協会は日本の婦人界の一勢力になっていますが、彼女たちの政治に対する盲目的な態度に、私はイラつきます。
●新婦人協会が掲げる綱領や事業は、婦人にとって極めてありがたいことですが、彼女たちの実際運動に対しては、私はなんの敬意も払うことができません。
●彼女たちは女性の政治活動を禁止した治安警察法第五条修正と、花柳病の男性の結婚制限に関する「母性の保護の要求」請願運動をしています。
●この請願運動は、婦人の参政権要求運動を引き起こすことになるのでしょう。
●それが成功して、婦人が男性と同等に政治的な自由を獲得したとして、その自由を謳歌できるのはどんな階級に属する婦人でしょうか。
●婦人や子供の問題も重要ですが、その婦人や子供の夫や父親が彼らの雇い主からどれほど過酷な扱いを受けているかという視点が、新婦人協会の面々にはありません。
●貧しい多くの娘たちは、不味いものを食べるだけのわずかな報酬しか得られない賃金奴隷として、雇い主を肥やすために利用されています。
●彼女たちには母性の保護など考える余裕はありません。
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〈四〉
●新婦人協会の運動は、中産階級の利己的な運動にすぎません。
●彼女たちは、自分たちが特殊な階級に属していることに気づいていません。
●彼女たちは、政治が権力保護、利益壟断(ろうだん)の機関にすぎないのに、あたかも民衆の要求が受け容れられる機関だと信じているおめでたい人々です。
●新婦人協会の面々は、今日までの自分の生活において不都合不自由を感じたことを改善するという狭い思考の持ち主です。
●たとえば、子供についても、自分たちの子供に対する不安を具体的に示したものばかりです。
●中産階級知識階級婦人は婦人労働者に優越感を持ち、婦人労働者を卑下し「教化」指導していますが、まずこれを恥ずべきです。
●欧州各国において、中産階級婦人の援助のために、労働組合の発達を阻害された例がいくつもあります。
●新婦人協会の運動の成果が平等にゆきわたるには、それを受け容れる生活状態が平等でなければならないのです。
●新婦人協会の面々は、それに気づいていません。
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〈五〉
●新婦人協会は自分たちの立場だけを考えて、利己的な運動に専念すればよい。
●しかし、婦人労働者を「教化」することはやめてほしい。
●不幸な労働者階級の婦人たちは、夫や子供たちと協力して、切実に彼らに迫っている悲壮な戦いに参加するでしょう。
●そして、ここでも私は真に暖かい心の持ち主だったロシアの婦人たちがやったことを思います。
●大学の開放を要求して拒絶されれば、すぐに他の方法で要求を貫徹させました。
●彼女たちは、あらゆる暴虐と戦い、人民の無知な心を叩いてまわりました。
●不正なものに対しては、男子と肩をすり合わせて勇敢に戦いました。
●彼女たちは知識も教養も持っていましたが、利己心を棄てて命をかけて戦いました。
●現在の切迫した社会状態に一切無関心な新婦人協会の婦人たちは、中産階級の女だけの内輪な運動を推進していけば、権力の保護の下、その運動は着々と効果を納めていくでしょう。
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野枝は此の原稿の最後に「附記」を記している。
附記ーー私はこの一文を書くに当たつていくつもの不自由を感じました。
その不自由の内、最も私の筆を渋らせたのは、新婦人協会の重な人々の思想的な基礎についての批評を除外した事です。
私は以前から表面に表はれた運動の批評よりは、その思想的方面に対する批評をして見ようと企てゝゐるのです。
そして、其女性偏重及び教育過信に対しては充分な意見を発表して見たい希望で、其腹案も半分以上は出来てゐるのです。
で、此度改造社からのお話で此一文を書くにあたつてもそれが始終邪魔をしてどうしてもうまくまとめることが出来ないのです。
それで申訳けのない次第ながら此儘発表します。
そして他日、前述のものが書けました際にまた併せて読んで頂きたいと思ひます。
(「中産階級婦人の利己的運動ーー婦人の政治運動と新婦人協会の運動について」/『改造』1921年2月号・第3巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p238~239)
『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題によれば、「新婦人協会の重な人々」は誰なのかはっきりしないが、同協会の理事三人は平塚らいてう、市川房枝、奥むめお、評議員は山田わか、坂本真琴、田中孝子、矢部初子ら十人である。
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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