2016年08月20日
第328回 アナ・ボル協同戦線
文●ツルシカズヒコ
第二次『労働運動』で政治面を担当した高津は、早大時代に「暁民会」を設立し、右翼の猛者学生を向こうにまわして血を流したこともあるが、『近藤栄蔵自伝』によれば、『労働運動』においても筆よりはむしろ行動の男だった。
伊井敬(近藤栄蔵)の「ボルシェヴィズム研究」は、労働運動社外の無政府主義者からの批判もあったが、日本で最初の順序立てたロシア革命紹介記事として注目された。
近藤憲二はアナ・ボル協同戦線を具体化した第二次『労働運動』について、こう回想している。
……伊井敬君の「ボルシェヴィズム研究」や第三インターナショナルの紹介にたいして、無政府主義側のサンジカリズム論やクロポトキン思想の紹介が同居していたが、報道の主体は国内の労働組合運動の動きであって、心配してくれる人もあったが、雑然渾然たる中にけっこう円満と協力があって、うまくやっていたのである。
要するに『週刊労運』だけではなく、社会主義同盟も日本社会運動の大勢も、アナ・ボル協同戦線の時代だったのだ。
気の早い私などは妊娠二ヶ月を九ヶ月と誤診したかも知れぬが、鉄は熱いうちに打つべしだ、慎重に観察ばかりしていては冷めてしまう。
上げ潮に乗って競い立とう、みんなもそう信じて動いていたのだ。
(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p230)
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、九津見房子は労働運動社で炊事や掃除を、名簿の整理や発送を引き受け、月給三十円で三人の子供と暮らした。
『労働運動』二次一号の「お伽噺」(大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)で、大杉は「日本脱出」中のことについて触れているが、本人は借金原稿の整理をしにある温泉に隠れていたと書いている。
大杉の行き先についてさまざまな憶測が流れたが、『報知新聞』はロシアだと報じた。
神奈川県警のある警部の話によると、一週間ばかり東京にいて、それから但馬の城崎温泉に行ったことまではわかっているが、それからは敦賀からシベリア方面に行ったらしいというものだ。
大杉はロシア人の下宿屋の一室を借りたが、そのロシア人はボルシェヴィキの疑いがある男で、それと大杉のロシア行きを結びつけて報じたのが『東京日日新聞』(一九二一年一月十三日)だった。
シベリアじゃなくて上海に行った、いやシベリアから上海に行ったという話もあった。
『労働運動』の復活は大杉が持ち帰った金の話と結びつき、警視庁の某警部は二万円と言っているが、神奈川県の某警部は五万円と言っている、あげくのはてには時価十五万円の五貫目のプラチナを持って帰り、十二万円で売ろうしているという噂まで流れた。
一月二十二日の『東京朝日新聞』の五面に、社会主義者が右翼に襲撃されたというふたつの記事が載っている。
一月二十一日、日本橋区万町の常磐木倶楽部で社会主義同盟新年会が開催されたが、国粋会、大和民労会と称する一団の男たちに襲われ、堺ら三名が鉄拳、木刀で乱打された。
さらに同日、自由人連盟が市外大崎の相生(あいおい)亭で演説会を催したが、棍棒やステッキを持った国粋会と大和民労会の両会員が乱入し、自由人連盟会員の松本淳三(中外社員)が腹部を日本刀で刺され重傷を負い、犯人は逃走した。
自由人連盟を代表して江口渙が労働運動社を訪れ、大杉に応援を求めた。
労働運動社と自由人連盟が中心となり会合を持ち、自衛のための武器を用意して赤衛団を結成した。
『読売新聞』(一月三十日)によれば、一月二十九日午後八時半ごろ、社会主義者の一団約六十名が浅草観音堂仁王門そばに結集。
手に樫の杖を持った一団は、風呂敷を旗にして赤衛団の檄文を撒布しながら革命歌を歌いつつ、水族館そばから六区に練り歩き、象潟署の警官とオペラ館そばで小競り合いをし、五名が同署に検束された。
このデモに参加した近藤憲二の『一無政府主義者の回想』によれば、浅草観音堂裏には大和民労会の本部があり、そこにデモをかけるのが目的だったが、デモ参加者が持っていた樫の棒は中外社の社長・内藤民治の百円のカンパで購入したという。
★『近藤栄蔵自伝』(ひえい書房・1970年)
★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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