2016年07月13日
第292回 東京監獄八王子分監
文●ツルシカズヒコ
一九一九(大正八)年十月三日、懲役二年の刑を終えた神近市子が東京監獄八王子分監から出所した。
『読売新聞』が「淋しい笑顔を見せつゝ 神近市子出獄す」「好物のバナナを携へて露国の盲目文学者などが出迎へ」という見出しで報じている。
風呂敷き包みを抱えた彼女の写真も掲載されている。
「露国の盲目文学者」とはワシリー・エロシェンコで、秋田雨雀らとともに自動車で迎えに行ったのである。
市子は朝五時五十分に起き朝食を摂った。
秋田やエロシェンコらが八王子分監に到着したのは朝七時だった。
一時間程経て三人は市子を伴つて獄門を出て来た、
『……残念乍(なが)ら今日は何も御話が出来ません、唯御挨拶丈けで御免を蒙ります』
市子の辞(ことば)を受けて秋田雨雀氏は語る
『神近さんは当分静養し将来は創作家として立つことにならうが獄中でも創作は可なりあつたと聞いて居ります』
(『読売新聞』1919年10月4日)
大杉と野枝のコメントも掲載されている。
大杉のコメント。
入つたものは死にでもしなければ出て来るにきまつてゐるのだから出て来ると聞いても格別変つた感想も無いよ。
殺されてゐたら草葉の陰で恨めしいと思つてたかも知れないがね。
何でも女子青年会で引き取りたがつてゐるとも聞いたがあんな耶蘇教などへ行くよりは、又行きもすまいと思ふうが、秋田雨雀君のグループに帰つて文学生活に入るのがあの人のために一番好いだろう。
獄中で科学の本でも読んで来ると好いのだがワイルドの「獄中記」を訳したとかいふ話で読んだ物も恐らく思想的の本だらうと思ふ。
たいして変つた女になつて来るとも思はないね。
会ひたいなどとは思はないが偶然会ふ機会でもあつたら、さアその時どんな顔をするかね。
(『読売新聞』1919年10月4日)
野枝のコメント。
もう四五年も前に、あの人のお友達が神近さんは結婚をするのが一番いい、家庭の主婦になればチャンと落つく事の出来る人だから、其の方が始終動揺しなくていゝだらうなどゝ云つてゐた事もありますが、今後あの人がどうするとも私は別にそんな事に対しては思ふことはありませんね。
まあ小説でも書いて文壇を賑やかすのが一番いゝでせう。
随分私たちも材料になるかも知るれませんがね。
私の家にでも遊びに来てくれたら一寸面白いおつき合ひが出来るかも知れませんね。
大分周囲がやかましいから先(ま)づそんな事もありますまいが。
でも彼(あ)の人の事だからフイとまた来ないとも限りませんよ。
そんないたづら気でも彼(あ)の人が出して呉れるようだと、本当におもしろい人ですけれど……。
(『読売新聞』1919年10月4日)
神近が「私の家にでも遊びに来てくれたら一寸面白いおつき合ひが出来るかも知れませんね」というコメントは、野枝の本心だったのではないか。
十一月、神近は堀保子に謝罪した。
保子のコメントを「市子と保子」という見出しで『読売新聞』が掲載している。
二三日前の雨のビシヨ/\と降る日、突然一人でやつて来たのです。
顔を見ると謝絶をするわけにも行かず座敷へ上げましたがオイ/\泣くので困りました。
穴があれば入りたいと言ひましたが私も掘れるものなら穴を掘つてあげたいと思ひました。
大杉を刺した時の模様を話して呉れと揶揄(からか)い半分に気を引いて見たら喋り出したので驚きました。
何でも結婚をする心の準備がチヤンと出来てゐるといふことでした。
私にも結婚を勧めましたがどんな気で言ふのでせうかね。
(『読売新聞』1919年11月28日)
『神近市子 わが愛わが闘い』によれば、市子は出獄した翌年、一九二〇(大正九)年、評論家の鈴木厚と結婚した。
鈴木は市子より四歳年少、早稲田大学中退、資産家の養子だった。
辻潤が市子を来訪したときに、たまたま同行してきたのが鈴木だった。
市子は鈴木との間に三人の子供をもうけた。
※秋田雨雀記念館
★『神近市子自伝 わが愛わが闘い』(講談社・1972年3月24日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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