2016年07月13日
第291回 ソシアルルーム
文●ツルシカズヒコ
一九一九(大正八)年九月二十四日、延島英一が巣鴨監獄から出獄、大杉の家に同居して労働運動社社員になった。
延島は五月に吉田一と銭湯に行く途中、小石川署巡査を尾行と見て暴行し、懲役三ヶ月を科せられて服役していた。
野枝は『新小説』十月号に「台所雑感」を書いた。
「新思想と教養を背景に立てる婦人の台所感」欄への寄稿で、山田わか、遠藤清子、田中孝子も執筆している。
野枝はまず当時の物価騰貴に触れている。
……資本家はあんまり儲ける事ばかり夢中になつて物価をつり上げたり賃銀の出し惜しみをして平民共を困らせないように、政府は表面のごまかしばかりして、結局主婦達を窮地におしこめるなどゝ云ふことのないようにして頂きたい。
(「台所雑感」/『新小説』1919年10月号・第24年第10号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p98)
まず前振りとして資本家や政府にチクリと苦言を呈したのであろう。
私は家庭生活と云ふものには充分に興味を持ち得ます。
衣食住、ともに自分の自由な趣味に応じて営むことが出来るならば、私はそれだけで充分享楽する事が出来ると思ひます。
家政、育児、料理、どれにでも没頭する事が出来ます。
わけて、料理をする事は私には一番興味深い事です。
(「台所雑感」/『新小説』1919年10月号・第24年第10号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p98)
しかし、大杉と野枝の家には常に何人かの同志が同居しているし、ふたりの家は労働運動社という職場でもあるから、普通の家庭ではない。
で私達は普通の家々とは全(ま)るで違つて、家庭と云ふものを完備さす為めに必要な努力をまるでしないと云つてもいゝ位です。
たとへば、家具と云ふやうなものに対してもOも私も二人とも相応に趣味も持つてはゐますけれども、それを購入し、家の中をかざる為めに一生懸命に働く、と云ふ事は出来ないのです。
何故なら私達の眼の前には、そんな事よりはもつと必要な他の事が迫つてゐますから。
(「台所雑感」/『新小説』1919年10月号・第24年第10号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p98)
衣食住のうち、食にだけはゼイタクをしていると野枝は書いている。
着物や家具にまわすお金を犠牲にしてでもである。
……私達はたゞたべる事だけに不相応なゼイタクをしてゐます。
そして、その食物ごしらへをするだけが、私が現在の家庭生活での唯一の享楽です。
ですから私は台所だけは何時でも不景気な風を吹かせないで愉快に皆んなの食物ごしらへの為めに働きたいと思ふのです。
(「台所雑感」/『新小説』1919年10月号・第24年第10号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p98)
こんな作りの台所があったらいいのに〜。
野枝には理想の台所があった。
当時から応接間を西洋風にする和洋折衷の家が流行り始めていたが、野枝は逆に居間や客間は日本風で、食堂や台所が西洋風なものがいいと考えていた。
大きなホールの片隅を台所に使つて大部分を食堂にして、炊事、食事に必要な一切のものをその室(へや)で間に合ふようにそなへておく。
親しみの多い客位は其処に通せるやうな設備もしておき、相応に室内をかざつても置いたり、楽器位はそなへておくと云ふやうにすれば、第一台所を清潔にする事がどうしても必要になり、窮屈なおもひをしながら働くにも当らない、室の内の人々と話しながら笑ひながら愉快に仕事が出来るし、其処に導き入れられた他人に親しみを感じさせる事が出来ると云ふようないろんな便利がかなりあります。
尤(もつと)も薪や炭の火を用ふと云ふやうな場合には、室内で火を燃すと云ふやうな乱暴も出来ませんが、水道瓦斯(がす)の便宜を持つ処ならば、こう云ふ台所は私には理想的なものだと思へます。
いろんな情実をもつた家では、そんな事は考へられないでせうが、私共の家のように殆んど家族同様の同志の出入りの多い、そして礼儀作法など云ふものとは縁の遠いところでは斯う云ふソシアルルームは便利と云ふよりは必要かもしれないのです。
で私は始終それを頭にえがいてゐます。
(「台所雑感」/『新小説』1919年10月号・第24年第10号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p99)
今なら当たり前のダイニングキッチンである。
和田久太郎は野枝の料理について、こう記している。
野枝さんは料理が御自慢だつた。
そして、実際にそれはうまいものだつた。
僕等はその御自慢で先づ満腹したが、大杉君は野枝さんの手料理が何より嬉しかつたやうだ。
(和田久太郎「僕の見た野枝さん」/『婦人公論』1923年11・12月号)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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