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2016年07月11日

第290回 出獄の日のO氏(二)






文●ツルシカズヒコ


 一九一九(大正八)年、第六回二科展は上野公園の竹の台陳列館(現在の上野公園噴水付近)で開催された。九月二日から一般公開だったが、林倭衛が出品した「出獄の日のO氏」が問題となった。

 八月三十日に警視庁の事前検閲があり、検事告訴され保釈中の刑事被告人の肖像が公衆の前に展示されるのを不快に感じた警視庁が、撤回命令を出した。

 二科会が抗議すると、八月三十一日、岡警視総監が来場し、撤回は命令ではないとしたが、二科会幹部に圧力をかけ、林が任意撤回したことにして「出獄の日のO氏」を引っ込めさせた。

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 九月一日、林は警視庁を訪れ、自ら任意撤回と公表したことに抗議、むしろ禁止命令を出せと迫った。

 警視庁の本間官房主事が改めて禁止命令を出すことを受け入れたので、二科会は「出獄の日のO氏」を再び展示し、大杉と野枝も鑑賞した。

 午後四時に下谷署から来た警部が撤去命令を発し、二科会はこれを受けて取り外した。

 理由は広い意味での安寧秩序の紊乱だった。

 大杉は撤回された絵が展示されていたところに立ち、「本物は絵よりもいっそう危険だぜ。これも撤回かい。僕は二科で日当を出せば、毎日でもここに立っているよ」と皮肉たっぷりに訴えたという。

『読売新聞』はこう報道している。





 ……林氏は呼ばれて今朝警視庁に行き本間官房主事に面会した、

 本間氏は林氏に妥協を申込んで、、命令によつて右の画を撤去する事なく作者が刑事被告人を描いたのが穏当でない事を覚つて自発的に撤廃されたいと語つた、

 併し林氏は断然之を拒絶したので結局話合の末陳列してよい事となつた、

 林氏が会場に帰つて来た時は既に本間主事が自動車で駆け付けて一旦撤去したのを再び掲げてあつた、

 この間に問題になつた此の作品のモデルたる大杉栄氏は伊藤野枝女史を伴つて見に来た、

 処が午後四時になつて下谷署から前田警部が突然やつて来て「私の職権を以つて撤去を命令する」旨を居合せた有島生馬氏に迄申し達した其の理由は広い意味での安寧秩序の紊乱であると云ふのであつた、

 林氏は「命令なら仕方がない、せめて特別室にでも入れる様にして貰へればいゝが結局は夫(それ)も駄目でせう」と諦め切つた言方であつた、

 有島氏は傍(そば)から「林君のあの絵は宛然(まるで)稲妻の様だつたね、今日の午後一時半頃から四時頃迄二時間半許(ばか)りピカツと光つた丈でね」と同情した、


(『読売新聞』1919年9月2日)


 同紙には、会場を訪れた大杉と野枝が、「出獄の日のO氏」が撤去されたところに立っている写真も掲載されている。





 九月二日、大杉は山崎今朝弥弁護士を通じて、警視庁警務部刑事課の課長・正力松太郎を告訴した。

 七月十九日、正力は警視庁詰めの記者に対して「(大杉が)日用品等の支払いをせず、家賃を支払う意志なく住居を借入れ、現住宅に無断侵入し……」などと語り、二十日の各紙はこれを報道した。

 この件に関して、日刊十五紙に謝罪広告せよと、正力に対して名誉毀損および名誉回復請求の告訴をしたのである。

 九月三日、大杉は「出獄の日のO氏」展示禁止処分に抗議するために警視庁に行き、本間官房主事に「弁護士・布施、山崎ほか五十名」による「鑑定書(依頼人・大杉栄)」を突きつけた。

「出獄の日のO氏」撤回命令は不法であり、刑法一七五条、治安警察法一六条、および美術展覧会規則にてらしても、禁止を命じうる法規はないという内容である。

 本間は苦し紛れに治安警察法一六条だと答えた。

 しかし、たとえ「安寧秩序ヲ紊シ」たとしても「公衆ノ自由に交通スル」場所においてという条件だから、適用はできないはずだ。





 大杉はこの日の夜、上野精養軒の二科会懇親会会場に赴き、有島生馬、林倭衛と面談、林担当の二科会幹部にも会って、警察の禁止理由を確認し、二科会として命令に従う必要はないのではないかと質した。

 再び展示をしないのなら、九月六日に大挙して押しかけ、一般公衆の通路として観覧料を払わずに通行するとまで詰め寄った。

 九月六日、警察が厳重な警戒体制をしいていたが、大杉は現われなかった。

 林や二科会に迷惑をかけるのは友誼上忍びないとして、大杉が実行を取り止めたのである。

 ちなみに「出獄の日のO氏」」は戦災を免れ、現存している(八十二文化財団所蔵)。


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 22:51| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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