2016年05月23日
第209回 霊南坂
文●ツルシカズヒコ
一九一六年七月十九日午後の列車で大阪から帰京した野枝は、七月二十五日に大杉と一緒に横浜に行き、大杉の同志である中村勇次郎、伊藤公敬、吉田万太郎、小池潔、磯部雅美らと会った(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。
野枝と別れた辻は一時、下谷(したや)区の寺に寄寓していた。
野枝が第一福四万館で大杉と同棲していたころである。
ある日、野枝が寺を訪れ辻に面会したときのことを、宮嶋資夫は書き記している。
「あなたと私とだつて何も他人でなくたつて好いぢやありませんか」
と云つた。
其の時辻君は、「貴様と○○位なら淫売を買ひに行くか」
と云つてから、
「お前は大杉君の方へ行く時分には一人でなければいやだと云つてゐたぢやないか。それなのに今になつてそんな事を云ふのは大杉君に負けたんだろ」
と云つたら、
「いえ私は初めから斯うなんです」
と強情を張つてゐた。
(「予の観たる大杉事件の真相」/『新社会』1917年1月号・第3巻第5号/『宮嶋資夫著作集 第六巻』_p287)
野枝が再び大阪に向かったのは八月二十四日だった(『日録・大杉栄伝』)。
大杉の『近代思想』再刊のための金策である。
野枝は再び代準介を訪ねた。
代は二〇日間居る約束を反古にしたことを叱責し、大杉と別れるならば必要なだけお金を融通するという。
野枝は石のように黙りこくり、叔父とは決定的な喧嘩をせず、金策に九州へ廻る。
実家の父・亀吉からもよい返事はもらえず、九月の初旬に帰京する。
野枝は帰京すると直ぐに意を決して、霊南坂の頭山を訪ねる。
大杉の出版の意義を訴え、資金援助を頼み込む。
頭山は代の姪でもある野枝に優しく接し、盟友である杉山茂丸を紹介する。
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p128)
大阪から福岡に行った野枝は、叔母・坂口モトのところに滞在していたようで、そこに宛てて大杉が手紙を書いている。
また大阪でそんなにいぢめられてゐるのか。
ほんとに可哀さうな野枝子だね。
大阪へは寄らずに直ぐ九州へ行つて了ひたい、とあんなに野枝子が云つてゐたのにね。
よつぽど痔をわるくしたものと見えるね。
その後はどう?
又長い間の汽車に揺られて、一層わるくなつてはゐやしないか。
しかし、そんな事で、杉田さんとか云ふ人にも会ふことが出来たのだね。
いつか伯父(ママ)さんが汽車の中で会つたと云ふあの人かい?
仕事は、男女関係の進化の、序文と目次とを書いただけ。
野枝子は、大阪を立つ時に電報をうつから、さうしたら手紙を書いてくれ、と云ふのだが、僕にはとてもそれまで待つてゐられない。
ほんとに僕は、幾度も云つた事だが、こんな恋はこんど始めて知つた。
もう幾ケ月もの間、むさぼれるだけむさぼつて、それでも猶少しも飽くと云ふ事を知らなかつたのだ。
と云ふよりは寧ろ、むさぼるだけ、益々もつと深くむさぼりたくなつて来るのだ。
そして此のむさぼると云ふ事に、殆ど何等の自制もなくなつてゐる程なのだ。
その野枝子と暫くでも離れるのだ。
しかも、お互ひに暫くでも音信なしでゐようと云ふのだ。
僕と同じ思ひの野枝子には、僕がどんな思ひをして其後の夜を明かしたか、今更云ふ必要もなからう。
野枝子が早く落ちついて、ほんとに野枝子自身の生活にはいる事、これが今の野枝子に対する僕の唯一の願ひなのだ。
果してこんどの九州行きは、野枝子の望み通りに、それを果たすための方法をつくつてくれるだらうか。
又、野枝子のもう一つの目的が、果してうまく達せられるだらうか。
此の二つの目的が達しられさへすれば、野枝子も僕も、直ぐに新しい生活にはいる事が出来るのだ。
しかしね、野枝子、若しうまく行かなかつたら、あせつたりもがいたりするよりも、何によりも先づ早く帰つておいで。
けれども、うまく行つてくれれば、ほんとに有りがたいのだがね。
野枝子もこんなに一生懸命になつて奔走してゐのだもの。
僕は、けふから又、うんと仕事にとりかかる。
もう昼近くなつた。
野枝子からはいつ電報が来るのだろう(三十一日)。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年九月一日 福岡県三池郡二川村坂口方野枝宛/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p649~654)
野枝が帰京したのは九月八日だった(『日録・大杉栄伝』)。
大杉栄『自叙伝』(「葉山事件」_p314)にも記述されているが、帰京した野枝は頭山満のところへ金策に行った。
野枝は上野高女時代に代準介に同行して頭山に面会したことがあるから、ふたりは知らぬ間柄ではない。
頭山は今は金がないからと言って杉山茂丸に紹介状を書いた。
野枝が杉山に会いに行くと、杉山は大杉に会いたいと言った。
九月の中旬から下旬ごろ(『日録・大杉栄伝』)、大杉が築地の台華社(杉山のオフィス)に行き杉山に面会すると、杉山は「白柳秀湖だの、山口孤剣だののように」軟化をするようにと勧めた。
国家社会主義くらいのところになれば、金もいるだけ出してやるという。
大杉はすぐに台華社を辞した。
杉山は無条件では金を出さなかったが、話の間に時々出てきた「後藤が」「後藤が」という言葉に、大杉はピンと来るものがあった。
大杉が杉山に面会できるまでの段取りをつけたのは、野枝であるが、彼女のこの金策について、鎌田慧はこう書いている。
……野枝は、祖父と親しかったという、「玄洋社」を組織した国家社会主義者である頭山満のもとへ金策にでかけたり、その紹介で、やはり福岡出身で玄洋社系の政界黒幕、杉山茂丸(夢野久作はその長男)に会ったりしていた。
(鎌田慧『大杉榮 自由への疾走』_p234)
頭山と親しかったのは野枝の祖父ではなく代準介なので、この記述は明らかな誤記であるが、この類いの記述に関して矢野寛治はこう指摘している。
野枝研究者の多くが、「頭山は野枝の祖父と懇意で」と書かれているのを散見するが、これはあくまで叔父代準介の間違いである。
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p129)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★『宮嶋資夫著作集 第六巻』(慶友社・1983年11月10日)
★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★鎌田慧『大杉榮 自由への疾走』・岩波現代文庫・2003年3月14日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image