2016年03月30日
第58回 夏子
文●ツルシカズヒコ
このときの野枝の印象を、神近は4年後にこう書いている。
……学校の休暇(やすみ)の時、根岸のKのところで逢つたのは正月であつた。
女中のやうな至つて質素な着付けが、お体裁屋の、中流の東京の家庭の人々とばかり接触してゐて、その嗜好と幾分の感情さへも分ち始めてゐた私には、その人までも何んとなく親しみ難(にく)いものに思はせた。
その上に、髪を振り下げにして素通しの眼鏡をかけて居(を)られたことが、私が一番嫌いな、気障な生意気な印象を与えて、益々私を遠ざけて了つた。
(神近市子「引かれものゝ唄」/神近市子『引かれものの唄 叢書「青鞜」の女たち 第8巻』_p153~154)
一九一六(大正五)年十一月に起きた、日蔭茶屋事件で懲役二年の判決を下された神近が、八王子監獄に入獄したのは一九一七(大正六)年十月だったが、神近が「引かれものゝ唄」を脱稿したのは入獄直前の九月だった。
「引かれものゝ唄」は神近の入獄直前の日蔭茶屋事件に関する手記だけに、野枝に対する記述は辛辣である。
岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』によれば、神近と野枝は青鞜社の研究会で顔を合わせたことはあったが、表立って紹介されたのは、この席が初めてだった。
野枝はこの津田塾出身の、七才年長の先輩に、ある意味での尊敬をいだいていた。
女性にしては珍らしいほど線の太い理解力と表現力を注目していたのである。
しかし神近のほうでは「会った最初から、なんというのか一種の“生理的嫌悪”を感じた」と、神近氏は筆者の問に答えている。
ーー「はじめて平塚さんのお宅でお目にかかったときは確か洗い髪でね、量も多いし質のいい髪の毛でした。眼鏡をかけて、体裁はかまわず、まあ田舎の娘さんという恰好だったけど、一種のお色気がたっぷりある感じでね。どうもわれわれとはなにか違った“異物的”な印象でしたね」
(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p114)
野枝たちは、越堂と朝倉の酒席の座を外して、次の間で森ヶ崎で催す新年会の日取りや会場の通知を社員に宛て書き始めた。
先刻から小さな書生が二階を上がったり降りたりして、紅吉に何か言っては怒られていたので、野枝が紅吉に尋ねると、藤井が来ているという。
紅吉が会わないと言ってるのに、玄関に座って帰らないという。
「藤井ってなんなの?」
神近がペンを握ったまま、哥津(かつ)の方に顔を向けて聞いた。
「『青鞜』にね、藤井夏子って名で短歌を出していたの。あの人は男ですよって言ってよこした人がいたので、気をつけてみるとそうなの。女名前なんか騙(かた)るのはよくないですよって言ったら、藤井夏子(カシ)と読むだなんて、そんな言い訳をするの。そら、あなた知っていて? 宮城房って武者小路さんの奥さんになった、あの人と関係があったんですってさ。なんでもね、宮城さんと武者小路さんの関係が始まると、温泉へふたり連れで行っていたのだけれど、宮城さんに置いてきぼりにされたのですと」
哥津はおかしそうに笑った。
「へえ、そう。何してるの?」
「もとは、福井のチャアチのオルガン弾きだったんですって。今は音楽学校に籍を置いているって言ってたわ。よく方々、女の人を尋ねて歩くんですとさ。田村さんのところ、与謝野さんのところへなんかも行くんですって。平塚さんのところへもお百度踏んだんだけど、とうとう玄関払い喰わせ通されたんですよ」
「そう、どんな男でしょう……」
神近は好奇の眼を輝かした。
「およしなさいよ、あんなやつ」
哥津と紅吉がそう言ったので、またみんな葉書を書き始めた。
「お嬢さん、どうしてもお帰りになりません。ちょっとでいいからお目にかかりたいからって、玄関に腰かけています」
「なんて言っても会わないよ、帰ってくれってそう言って下さい」
紅吉は癇癪を起こしながら、ぷんぷん書生にまで当たり散らかした。
「ちょいと、紅吉、私どんな男だか見てやりたいからお上げなさいよ」
「およしなさい、神近さん。ずうずうしくて大変よ。それにまた、上がったら動きやしないわ、帰りがうるさいから」
哥津は極力、神近に反対した。
「まあ、いいわ。見てやりましょうよ。紅吉、お上げなさいよ。ね、ちょっとお上げなさい」
「じゃあ、上がるように言って下さい」
紅吉が仕方なく書生にそう言いつけた。
その男はまもなくその席に座った。
色の黒いにきびだらけの嫌な顔をしていると、野枝は思った。
体を変にくたくたさせながら、女のようなしなを作って横座りになって、きゃしゃな女物の羽織の紐をいじりながら、粘りついた作り声のような不自然な声で下らないことをしゃべっているのを見て、野枝はぞっとした。
「女の腐ったの!」
野枝はそう思いながら、辛抱して神近につき合ってこの男の顔を眺めているうちにだんだん、その嫌味な動作が癪にさわってきた。
野枝はそっぽを向いて、またハガキを書き始めた。
用事がすんだので、野枝たちは帰り支度を始めた。
藤井も腰を浮かせて一緒に帰ろうと言った。
哥津が嫌な顔をした。
野枝たちが出ると、紅吉と藤井も一緒に出た。
金杉の通りに出て三島さまの前で、神近と哥津はすばしこく電車に乗った。
「私ももう少し送りましょう」
紅吉は野枝と一緒に歩き出した。
藤井も一緒に歩いてくるのが、野枝には堪らなく嫌だった。
「ねえ、尾竹さん、もう一度僕あなたを送ってお宅まで行くから下さいよ」
「明日送りますよ、きっと!」
「だって僕もうじき旅行に出ますからね、いいでしょう、そのために今晩は伺ったのですよ」
やがて彼は二、三間先を歩き始めた。
「あの男ね、私に田村さんからもらった姉様をくれって言うんです。あれは大事なので、やれやしない」
「あれを? 断ればいいじゃないの、馬鹿馬鹿しい」
「それがね、あげるって約束したのよ」
「なんだってそんな約束するの、約束なら仕方がないわ」
「だけど惜しいからやめたいの。今、私が家に引き返すと、あげなくっちゃならなくなるから、どうにかしてまきたいな。あなただって私について来なけりゃつけられるに決まっているから、ふたりでまきましょうね」
「ええ、そうしましょう」
「藤井さん、藤井さん。野枝さんはね、中根岸の叔父さんのところに泊まるんですってさ。私も一緒にそのお宅に伺うから、あなたはお帰んなさいよ」
そう言い捨てて、紅吉はスタスタと右手の横丁へどんどん入って行った。
野枝も紅吉の出鱈目をおかしく思いながら、後についてスタスタ歩いた。
身代わり地蔵のところまで来て、後ろを振り返るともう藤井の姿はなかった。
「これでよかったわ。もう少しで姉様を取られてしまうところだった」
「そんなに惜しいものを約束するなんて、あなたもいけないわ」
「だって、そのときいやだって言えなかったから。もしあれをやってしまうと、田村さんに怒られるわ。ああ、よかった」
「馬鹿ね、紅吉は。そしてとうとう嘘ついちゃったのね」
「だって仕方ないわ。じゃ、さようなら、気をつけていらっしゃい」
「ええ、ありがとう、さようなら」
紅吉の大きな姿がずんずん闇に吸われてしまった。
野枝もそのまま脇目も振らず、電車に遅れまいと鴬渓(うぐいすだに)に急いだ。
ようやく間に合った終電車の片隅に座って、野枝はほっとした。
野枝はこの日、みんなで取り交わした会話をひとつひとつ思い浮かべながら、静かに目をつぶった。
※三島神社動画 ※武者小路房子2
★神近市子『引かれものの唄 叢書「青鞜」の女たち 第8巻』(不二出版・1986年2月15日 ※『引かれものゝ唄』・法木書店・1917年10月25日の復刻版)
★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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