2016年08月04日
第314回 航海記
文●ツルシカズヒコ
一九二〇(大正九)年六月十五日に開かれた労働運動同盟会の例会で、岩佐作太郎が尼港事件のパルチザンを話題にした。
大杉はパルチザンについてこう書いている。
パルチザンの首領が何んとか云ふ無清酒主義者で、其の秘書官がやはり何んとか云ふヒステリイ性の食人鬼、女無政府主義者だ、と事ふ(ママ/※「云ふ」であろう)やうな事も、誰も問題にはしなかつた。
厄介な手に負へない奴は、何処ででも皆な無政府主義者にして了ふのだ。
ただ、皆んなの注意をひいたのは、パルチザンと云ふ戦術の一形式だ。
パルチザンは正規軍ではない。
即ち、ちやんとした組織のある、旗鼓堂々の、立派な軍隊ではない。
二人でも三人でも、或は五人でも十人でも、一種の自由軍を形づくつて、敵のすきを窺つては不意打ちをし、それが済めば又知らん顔をして、家に帰つて働いてゐる、と云ふ、実際厄介な、ちよつと手に負へない奴等だ。
嘗つてナポレオンがロシアに侵入したとき、モスコオで大火に会つて……遂に退却を余儀なくされた際……此の自由軍の不意打ちに会つて、散々悩まされた。
其の事はトルストイの『戦争と平和』なぞにも詳しく書いてある。
ロシアのボルシェヰ゛キは、赤衛軍と云ふ正規軍を造つて、外国軍や反革命軍に対抗してゐる。
しかし、若し此のパルチザンが十分に発達すれば、革命にはそんな常備軍の必要ななくなるだらう。
又、革命政府などと云ふものの必要もなくなるだらう。
尤も、其のパルチザンで、こんどのやうな虐殺ばかりやるようでは、甚だ困りものだが。
(「パルチザンの話」/北風子の筆名で『社会主義』一九二〇年九月号に掲載/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』)
また大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、橋浦時雄が「大杉君は日頃無政府主義ではなく大杉主義だ、と言つているとのことだが説明してほしい」と質問すると、大杉は「僕は無政府主義だ。ただ外国の主義そのままではないということだ。多少はクロポトキンの思想を基にしているが」と答えた。
この年の六月から七月にかけて、安谷寛一が大杉宅に寄寓していた。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉が安谷を呼び寄せたのは、安谷の勉強も兼ねて『昆虫記』の翻訳の手伝いをさせるためだった。
大杉はこまめに辞書を引く主義だった。
大杉が鎌倉に引っ越したのは贅沢をするためではなく、債稿(原稿料を前借りしてまだ仕上げていない原稿)を片づけるためだった。
同志の出入りが多い本郷区駒込曙町の労働運動社では、集中して仕事ができないからだ。
村木は、毎日お勤めのように出かけては夕方になると、私にとビールを一本持って帰って来た。
材木座の氷屋とかに手伝いに行くのだと云っていた。
私は辞書ひき、そして野枝さんの話し相手、つまり私達に仕事を持たせて話しかけさせない手段だった。
それに野枝さんもダアウィンの『航海記』をひねりまわしていた。
(安谷寛一「晩年の大杉栄」/『展望』1965年9月・10月号)
大杉の訳稿「蟷螂の話」は『新小説』七〜八月号に掲載され、「行列虫の話」は『改造』九月号に掲載された。
ダーウィン の『航海記』を翻訳中の野枝について、安谷はこう記している。
丁度その頃、野枝さんはダァヰンの航海日記の翻訳をしてゐたが、その傍で寝はらばつて雑誌を読んだり午睡したりしてゐる私に、その難解なヶ所をよく尋ねた。
それが余り熱心なので、つひ引き入れられて、ほかの字引をひいて見たりもしたが、なんでもそれは船や航海上の専問(ママ)語のやうなものなので、たいてい好い訳語は見つからなかつた。
(安谷寛一「野枝さんを憶ふ」/『自由と祖国』一九二五年九月号)
七月二日、野枝と大杉は新橋駅の楼上にある東洋軒で開かれた、山川均・菊栄夫妻の帰京歓迎会に出席した。
山川夫妻は均の老母が重体のため、前年十二月に一家で倉敷の均の実家に帰省、四月に老母の死を看取り、半年振りに帰京したのである(山川菊栄『おんな二代の記』)。
七月五日『読売新聞』(朝刊)に与謝野晶子、堺真柄、山川菊栄、望月百合子、伊藤野枝、岡本かの子、堺為子の集合写真が掲載されている。
※『ビーグル号航海記』
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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