2016年05月30日
第227回 宮嶋資夫の憤激
文●ツルシカズヒコ
十一月十日の『東京朝日新聞』は、五面の半分くらいのスペースを使って、この事件を報道している。
見出しは「大杉栄情婦に刺さる 被害者は知名の社会主義者 兇行者は婦人記者神近市子 相州葉山日蔭の茶屋の惨劇」である。
内田魯庵は、こうコメントしている。
……近代の西洋にはかう云ふ思想とか云ふ恋愛の経験を持つてゐる人がいくらもある……彼が此恋愛事件に就いて或る雑誌に其所信を披瀝したのを見ると、フイロソフイーとしては確かに徹底してゐた……只日本現時の教養の上からは彼の云ふフイロソフイーは理論としては兎も角、感情の上では容易に許されない性質のものである……神近の無恥な行為に至つては全然長屋の婦女と揆を一にする醜悪な事実として、面を背けざるを得ない
(『東京朝日新聞』1916年11月10日)
与謝野晶子は、こうコメントしている。
あの人達が発表したものを見ても私はその思想を肯定することは出来ませんでした……三人と恋をするといふことは不自然であります何時かは何かの形で破裂するであらうといふ予感が時々せぬでもありませんでした
(『東京朝日新聞』1916年11月10日)
十一月十日、夜が明けると、宮嶋たちは神近を見舞うために葉山の警察に行くと、すでに護送した後で面会することができなかった。
そこで其方達はその足ですぐ病院へ行くと、入口の庭で野枝に逢つたので、又癇癪を起こして野枝を泥濘(ぬかるみ)へ突倒し、散々打擲を加へたといふ事を後で聞きました。
間もなく宮島さんから電話で『大杉君には言ふべき事をいひ、野枝には制裁を加へたから、僕はもう用がない、すぐ東京へ帰る。今東京から電話で山川君が来ると云ふ知らせがあつた』と申されました。
(堀保子「大杉と別れるまで」/『中央公論』1917年3月号_p22)
このときのことを山鹿泰治は、こう記している。
明くる朝病院に行つて見ると、杉は首に繃帯をして寝てゐた。
意識は明瞭だがしやべると苦しいと言つた。
僕は杉に『これから一層進んだ運動に入らなければならぬ今日、君が女の問題位で蹉跌しては同志が離散するから、一時女の問題は打ち切つて野枝さんを遠さかつて貰つてはどうか』と言つて見たが、頑として聞かなかつた。
そこへ宮島らその外五六人であばれ込んで来て、外出から帰つて来た野枝さんを捕へて泥の上にころがして蹴り飛ばした。
僕も何の分別もなくこの暴徒に加つてドロ靴で一つ二つ蹴り付けた。
なほ宮島は病室へ飛び込んで来て、『やイ大杉、てめえは抵抗力がないから今はゆるしてやるが、おぼえてろ』とか言つてタン呵を切つた。
何でも『クロポトキンよりや国定忠治の方が偉いんだ』とか何とか言つたやうだ。
それがすむと、今度は警察へ行つて神近に面会するんだと云つて自働車を雇つて来たから僕も行つて見たが、もう神近は前夜の内に横浜監獄へ送られてゐた。
(山鹿泰治「追憶」/『労働運動』1924年3月号_p39)
堀保子「大杉と別れるまで」と山鹿泰治「追憶」では、微妙な違いがあるが、ともかく野枝が複数の男たちから泥濘(ぬかるみ)の上に転がされて暴行を受けたのである。
野枝に対するこの暴力は「野枝殴倒(はりたほ)さる 友人宮島の憤激 大杉も罵倒さる」という見出しで、『東京朝日新聞』の記事にもなった。
大杉等の友人宮島資夫、山鹿、有吉外(ほか)二名は十日朝葉山分署に神近を見舞ひたるが既に横浜に護送されたるを知り失望裡に自動車を雇ひ千葉病院に大杉を訪問する途中午前十一時頃野枝が病院手前の高橋商店にて買物せる姿を見、
一行は病院玄関口にて待伏せして野枝が小鍋、皿、茶碗、林檎、葡萄類を抱へ伊藤巡査部長と共に玄関に差懸るや宮島は突然野枝に向ひ『お前の為めに親友一名を殺したのだ』と言ひ矢庭に鉄拳を以つて野枝の横面を乱打し不意を喰ひて玄関外に仆(たふ)れたる野枝を井戸端の泥濘(ぬかるみ)中に突倒したり
斯る処に巡査が懸け付け野枝を大杉の病室に連れて行きしに宮島等も続いて病室に押かけ野枝が大杉の胸に顔を伏せて泣き崩れ居る体を見るや宮島は又も蹴飛ばし或は踏みにぢりつつ『貴様は今死にさうな自分の子供を打(うつ)ちやつて置いて斯んな所に来て居るのは既に虚偽の恋に陥つて居る』と怒号したり
此の騒動を目前したる大杉は無言の儘(まま)凄き眼(まなこ)をもて宮島等を睨み付けしが宮島は仁王立の儘『君も意気地のない男だ僅か一婦人の恋に溺れて主義主張を葬り去るとは……、君が此の不幸に遭はなかつたら僕は此の女を殺して終ふ処だ もしこの有様を見て残念だと思ふなら全快してから遣つて来い何時でも決闘するから』と罵りつゝ其儘立ち去れり
(『東京朝日新聞』1916年11月11日)
宮嶋資夫の『遍歴』にこの日の前日、前述したように「三時頃に一人で東京へ帰らうと思つて出て来ると井戸端の処で野枝に出会つた。何だか知らないが無茶苦茶に癇癪が起つたので、番傘で頭を擲りつけた」という記述があるが、これが事実だとすると宮嶋は二度も野枝に暴力を振るったことになる。
同日、および翌日の『東京朝日新聞』によれば、十一月九日未明に逗子の派出所に自首した神近は、葉山分署に移され殺人未遂罪の令状を執行され、十一月十日朝に横浜監獄に護送された。
宮嶋が自伝『遍歴』の執筆を始めたのは一九五〇年一月、書き終えたのは同年五月だった。
このとき宮嶋は六十四歳、宮嶋が逝ったのは翌年だった。
宮嶋は三十四年前に野枝に振るった暴力について、こう書いている。
神近からいつも彼女が苦しい思ひをしては金策をしてゐる事を聞いてゐた。
病院に大杉を見舞つたときには、彼等がドライブした事など聞いてはゐなかつたが、それでも彼等の行動に好感を持つ事はできなかつた。
辻の事も意識下にあつたのであらう。
野枝といふ女が、いやに図々しく、横着なように私には思われた。
愛する男を切つて、今は留置場にゐる神近と、愛人を独占する喜びに浸つてゐる野枝との間に、何か感傷的になつて、遂(つい)かつとして擲つてしまつたのだ。
後になつて、つまらない事をしたものだと自分でも恥てゐる。
(「遍歴」/『宮嶋資夫著作集 第七巻』_p127)
十一月十日の夕方、宮嶋と入れ替わりで山川均が日蔭茶屋にやって来た。
保子は大杉の看護を自分がやるのか野枝がやるのか、大杉にはっきりと決めてほしいと思い、その旨を山川に伝え、大杉の返事を聞いてもらいたいと山川に頼んだ。
病院に行った山川は二、三時間後に日蔭茶屋に戻って来た。
山川さんの云ふには『大杉君は成る程自分達も不謹慎だつたらう。があんな暴動を起こした以上、野枝は帰されぬ。野枝も又全責任を負ふて今後看護するといつてゐる、といふ返事をした』との事でした。
(堀保子「大杉と別れるまで」/『中央公論』1917年3月号_p22)
その夜、保子は山川や大杉の次弟・勇らと逗子を引き上げて帰京した。
★『宮嶋資夫著作集 第七巻』(慶友社・1983年11月20日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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