2016年05月30日
第226回 オースギカミチカニキラレタ
文●ツルシカズヒコ
一九一六(大正五)年十一月九日未明、神近に左頸部を短刀で刺された大杉は、神奈川県三浦郡田越村(たごえむら)逗子の千葉病院に入院した。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉の傷は「右下顎骨下一寸の個所に長さ一・八センチ、深さ二・五センチの創傷」だった。
大杉の容態は一時思わしくなかったが、夕刻にはだいぶ回復して、話ができるようになったので、医師は一命に別状はないだろう、と診断する。
病院には朝から野枝が駆けつけて看護。
午後には保子と宮嶋が、次いで荒畑寒村と馬場孤蝶が見舞いに急行して来た。
(大杉豊『日録・大杉栄伝』_p198)
近藤富枝『本郷菊富士ホテル』によれば、十一月九日早朝、菊富士ホテルの帳場の電話がけたたましく鳴った。
葉山の日蔭茶屋で、大杉が神近に刺され重態であることを、野枝に伝えてくれという。
電話に出たのは菊富士ホテルの主人、羽根田幸之助の三女で当時、淑徳高女在学中の八重子だった。
八重子はあわてて三階の野枝の部屋に走った。
宮嶋資夫は「オースギカミチカニキラレタスグコイ」という電報が売文社から来たので、京橋の売文社に駆けつけた。
堺利彦からおおよその状況を聞き、堀保子も売文社に来ていたので、ふたりで逗子に向かった。
大杉は病院に入つてゐた。
首にホータイをして寝てゐた。
声が出ないと言つて余り話はしなかつた。
野枝も已に来てゐたが、やす子さんの顔を見ると、どこかへ引込んでしまつた。
枕頭には、村木源次郎がつき添つてゐて馬場先生も来ておられた。
村木はだれに聞いたのか知らないが、神近が大杉に「浅間しいとは思ひませんか」と言つた、と言つては笑つていた。
神近はすぐ自首したといふので、警察に行つたが、面会は許されなかつた。
大杉は黙つて眠つてゐるばかりであるし、やす子さんは、気まづい顔をして枕頭に坐つてゐる。
変な空気であつた。
三時頃に一人で東京へ帰らうと思つて出て来ると井戸端の処で野枝に出会つた。
何だか知らないが無茶苦茶に癇癪が起つたので、番傘で頭を擲りつけた。
そしてそのまま帰つてしまつた。
(「遍歴」/『宮嶋資夫著作集 第七巻』_p123~124)
十一月九日の朝、堀保子は差出人不明の逗子からの電報を受け取った。
「オホスギビヨウキ、オイデマツ、キトクノオソレナシ」
保子が堺利彦に連絡を取ると、堺が保子の家にやって来た。
売文社から電話で問い合わせてみることになり、堺と保子は京橋の売文社に行った。
日蔭茶屋に電話してみると、大杉は逗子の千葉病院に入院しているというので、保子は売文社に来合わせていた宮嶋と逗子に急行した。
売文社にはすでに新聞記者が押しかけ、混雑していた。
千葉病院へいつてみると、重態と思つたのに引代へ、咽喉の所へ繃帯をした大杉は平生の如く口をきいて、そして煙草をふかしてゐるのです。
稍(やや)安心はしましたが、そばに野枝がゐるのを見て不快でたまりませんでした。
宮嶋さんは此際野枝が此処にゐるのは不都合だからといつて野枝に退去を迫つたのですが、野枝は看護をしたいといつて去りませんでした。
私も看護をしたいとは思ひましたが、野枝と一所にゐることは好みませんから、其事を宮嶋さんに話して大杉の意見を聞いて貰ふ事にしてゐる処へ、又東京から馬場さんと荒畑さんとが来ました。
馬場さんも、此の看護は奥さん(私)がすべき筈だといつて、野枝に一時引取つてはどうかとお勧めになつたやうですが、野枝は泣いてゐて返事をしない。
(堀保子「大杉と別れるまで」/『中央公論』1917年3月号_p20)
宮嶋が保子に紙を渡した。
その紙には大杉の字でこう書いてあった。
「当分あなたと野枝と二人にゐて貰ひたい」
もどかしくなった保子が大杉の枕元で「自分一人で看護をしましょう」と言うと、大杉は「そんな事を言わんで野枝(あれ)を置いてもいいじゃないか。当分は見舞客も多いことだろうから、ふたりでいてくれ」という。
私は最前から野枝が不遜の態度を極めてゐるのを見て不快に思つてゐましたから、大杉に『二人にゐて貰ひたいと言ふなら、私に対して野枝に何とか挨拶をさせたら好からう』と申しました。
そこで大杉が野枝をよんで注意すると、『私は御挨拶をしやうと思つてゐたのですけれど、もう随分皆さんから侮辱されました。何んと御挨拶をしたら可(よ)いのでせう』と野枝は云ひました。
大杉は『ソレだからあなたは人に誤解されるのだ……二人がそんな事なら二人共帰つてくれ』といひました。
私はもう/\こゝに居るのに堪へられませんので、次ぎの室に居られた宮島さん……に『私はこゝを引上げる』といひました。
こんな事をしてゐる間に、宮島さんは大いに激昂して頻りに野枝を罵り、『保子さんが来てゐるのに貴様がづう/\しくこゝに居るのはどういふ訳だ』なぞ叫んだやうでした。
(堀保子「大杉と別れるまで」/『中央公論』1917年3月号_p21)
保子と宮嶋は日蔭茶屋に一時、引き上げることにした。
日蔭茶屋には保子も大杉と一緒に来たことがあった。
馴染みの女中のお源さんに、大杉がいた二階の八畳間に案内された。
廊下の血潮はきれいに拭き取ってあったが、まだ生々しい血が畳の間や壁に付着していた。
前夜、大杉と神近が茶受けにした煎餅のかけらなどが散らばっていた。
お源さんから事件の様子などを聞いているところに、三、四人の見舞客が病院から引き上げて来て、その夜はその部屋で朝の五時ごろまで語り明かした。
見舞客の中には山鹿泰治がいた。
寒い夜、逗子の日蔭茶屋に行つて見ると、堀保子が泣いてゐるそばに宮島資夫君が切歯扼腕してゐた。
保子さんは『他人の男を盗んで又それを盗まれたからといつて、その盗まれた男を殺すなんて馬鹿な話しがあるものか、野枝さんも亦私しに対して何とか挨拶のありさうなものなのに、逢つても知らん顔をして大杉が挨拶をしろといつても嘯(うそぶ)いてゐるなんていまいましい』と言つて怒つてゐるし、宮島くんは『神近は僕のワイフの古い友達だからよく知つてゐるが、神近がこんな事をしたのは皆な野枝が悪いんだ。大体大杉が悪い。主義の上では強くても女には弱くて丸で決断力がないからこんな事になるんだ。神近から金を取つて二人で贅沢をするなんてフトい奴だ』と憤慨してゐる。
(山鹿泰治「追憶」/『労働運動』1924年3月号_p38~39)
※山鹿泰治2
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★近藤富枝『本郷菊富士ホテル』(中公文庫・1983年4月10日)
★『宮嶋資夫著作集 第七巻』(慶友社・1983年11月20日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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