2016年05月09日
第154回 死灰の中から
文●ツルシカズヒコ
大杉が野枝の第一の手紙に非常な興味を持ったのは、もうひとつの大きな理由があった。
当時の大杉は内外に大きな不満を持っていた。
外に対する不満というのは、個人主義者らの何事につけても周囲への無関心であり、そして虐げられたる者に対する同情や虐げる者に向ける憤懣に対する彼らの冷笑だった。
「結局、それがどうなるんだ。同情してもその相手にとってなんの役にも立たず、憤懣する相手にはそれがために自分までが虐げられることになる。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。そんな余計なおせっかいをするよりは、黙って自分だけの仕事をしているがいい」
これが彼らの言葉である。
大杉は無関心だけならまだ許せたが、冷笑する冷血漢を当の敵よりも憎むほどにまで、彼らに対する嫌悪感を激昂させていた。
大杉らへの冷笑嘲笑は、外からばかりではなくサークルの内からも来た。
堺利彦と大杉とは、もうよほど前からお互いの主義や主張にだいぶ懸隔があり、お互いの運動の方針にだいぶ緩急の差があった。
堺やその周囲の者の思想や行動への大杉たちの無遠慮な批判は、彼らを不愉快にさせたのは事実だったろう。
彼らの集会とは別に、大杉たちが始めた集会が盛大になるのを見て、彼らが気持ちのよかろうはずもなかった。
荒畑寒村や大杉が多少、社会的に知られるようになり、文壇の一部でも彼らより多少歓迎されたことは、少なくても大杉なぞがいい気になっていたことは、堺はともかく、彼らは不満であり苦々しく思っていた。
『近代思想』の文壇的運動に嫌気がさして、大逆事件以来の迫害の恐怖が漲る中、乾坤一擲(けんこんいってき)的『平民新聞』を創刊したときにも、彼らはやはり冷笑の眼で見ていた。
「向こう見ずめが、今に見ろ」
堺だけは、逸(はや)りに逸る大杉たちの将来を真面目に心配してはくれたが。
『平民新聞』が発禁の連続で一回だに満足に出すことができず、六号で廃刊になったときには、堺だけはそうではないだろうが、彼らは勝利の微笑さえ浮かべていた。
「出せるものを出したらどうだろう」
荒畑や大杉の周囲にいる者も、こんな言葉を口にするようになった。
この言葉ほど大杉の癪にさわったものはなく、そんなことを言うやつは同志でも友人でもないとすら思うほど激昂した。
『平民新聞』が没常識で無茶なものであったところで、そうしたものを作らざるを得なかった心情を理解してくれるのが、真の同志や友人だと大杉思った。
大杉はまたこうも考えた。
彼には『平民新聞』がそんなに無茶なものとはどうしても思えなかった。
それでいて禁止になるのは、される側が悪いのか、する政府が悪いのか。
彼にはどちらも当然のことをしていると思えた。
しかし、そんな場合に最も悪質なのは編集者を責めて、政府の味方をすることだ。
そんなやつらがいるから、いつまでも政府は遠慮なくその権威をふるうことができるーー大杉はそう考えていた。
いつか堺も、同志の集合について、大杉にこんなことを言ったことがある。
「いわば、まあ、どこかの旦那が自分免許の義太夫を聞かせるために、親類縁者を寄せ集めるようなもんだからな……」
これには多くの同志に対する不満、軽い自嘲、そして大杉らに対する嘲笑が含まれていた。
大杉はむっとしたが、しかしまた、うまいことを言うなあとも思った。
そして、多くの同志に対する不満には同意をするほかはなかった。
「まるで暖簾と腕押しをしているようなもんだなあ」
荒畑も大杉によくこんなことを言った。
いわゆる同志と称する者の多くは、ただ以前から同志の列に加わっているというだけのことで、大逆事件以来の迫害の恐怖と無為無能の習慣から、まったく惰性に陥っていた。
大杉と荒畑が『平民新聞』を創刊したのは、彼らの惰眠を覚ますためであり、入獄でもすれば彼らの刺激にもなろうかと思ったからだった。
しかし、政府のやり方は以前のように司法処分ではなく、行政処分という新手の手法で対抗してきた。
荒畑と大杉は、
「仏の顔も三度と言うんだから、いわんや……」
などとふざけながら、すっかり入獄の準備をしていたが、不本意ながら無事にすんでしまった。
かくして外から内へと進んだ不満は、ついに大杉自身に対する不満になった。
ことに野枝の手紙は大杉に深い反省を与えた。
野枝が感激した谷中村の事件に対して、大杉は何もしないどころか、村民が溺れ死んでしまえば面白いと思った。
助けられるのではつまらないと思った。
なまじっかな社会学などの素養から、虐げる甲階級と虐げられる乙階級が存在するのは自明の理と決めていて、それも少しも不思議としない感情が大杉の中に生まれていた。
しかも、甲階級と乙階級の認識は事実から得た実感ではなく、書物の中で学んだ理屈にすぎなかった。
大杉は幼稚なセンチメンタリズムを取り返したいと思った。
憤るべきものにはあくまで憤りたい、憐れむべきものにはあくまでも憐れみたい。
そして、いつでも虐げられたる者の中へ、虐げる者に向かって、躊躇なくかつ容赦なく進んでいきたいと大杉は思った。
N子がY村の話から得たと云ふ興奮を、其の幼稚なしかし恐らくは何物をも焼き尽くし溶かし尽くすセンテイメンタリズムを、此の硬直した僕の心の中に流しこんで貰ひたい。
僕が彼女の手紙によつて最も感激したと云ふのは、要するに僕が幻想した彼女の血のしたたるやうな生々しい実感のセンテイメンタリズムであつたのだ。
本当の社会改革の本質的精神であつたのだ。
僕はY村の死灰の中から炎となつて燃えあがる彼女を見てゐたのだ。
(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/伊藤野枝との共著『乞食の名誉』/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』_p596/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』_p281~282)
★大杉栄・伊藤野枝『乞食の名誉』(聚英閣・1920年5月)
★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)
★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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