2016年05月15日
第177回 ねんねこおんぶ
文●ツルシカズヒコ
大杉と堀保子は前年一九一五(大正四)年十二月、小石川から逗子の桜山の貸別荘に引っ越していた。
『近代思想』(第二次)一月号(第三巻第四号)が発禁になったので、大杉は一九一六(大正五)年一月二日にその対策のために逗子から上京し、翌一月三日に吉川守圀の家に同人たちが集まり、協議した。
大杉が大塚坂下町の宮嶋資夫宅を訪れたのは、その夜十二時近くだった。
「今夜は一寸報告にやつて来た。それは神近と僕とのことだが」と云ふ切り出しで、神近と関係の生じた事を話した。
(「予の観たる大杉事件の真相」/『新社会』1917年1月号・第3巻第5号/『宮嶋資夫著作集 第六巻』)
一月四日の夜に逗子に帰宅した大杉は、妙に萎(しお)れていた。
堀保子が大杉と神近との関係を知ったのは一月六日の夜だった。
……大杉は何と思つたか、曽て神近が京都に行つた時、土産に持つて来てくれた御大礼の春日灯籠を取つて放りつけたり、古い目ざまし時計を川の中に投げこむだりするので、ハテ変な事をするわいと思つて、一體あなたは何でそんなに不機嫌なのかと改めて聞き糺すと、『ナニ僕が悪いのだ、僕が悪いのだ』と云つて又悄(しほ)れて了ふのです。
それで私も少し疑念が起り『あなたは岩野さんの様な事をしてゐるんでせう』と突込みますと、大杉は何時もの癖の楽書をしながら、只ウンと云つて頷くのです。
『相手は誰です』と云ふと、『それは聞かんでくれ』と云ふのです。
其時私はフト胸に浮かんだまま『神近でせう』と云ふと、大杉は又ウンと云つて頷くのです。
私は真逆と思つた事が本人に承認されて、一度に冷水を浴せられた様な気持がしました。
そしてアア聞かねばよかつたといふ心地もしました。
(堀保子「大杉と別れるまで」/『中央公論』1917年3月号_p8)
保子は大杉にこの結末をどうするのだと迫った。
『……所謂魔がさしたとでもいうのだらう。然し此事件を余り重く見てくれては困る。彼女には屈辱的な条件をつけてあるのだから安心してくれ』と泣いて詫びるのです。
私の不安は其れ位ゐで取去ることは出来ません。
此から後どうする積りかと更に詰問すると、『堺君にでも行つてみたらどうか』といふのです。
(堀保子「大杉と別れるまで」/『中央公論』1917年3月号_p8)
一月八日に保子は上京し、堺や荒畑や宮嶋に相談した。
堺はこの際、きれいに別れたらどうだと言った。
荒畑と宮嶋は真面目な関係とは思えないから、しばらく様子を見てみたらどうだといったようなことを言った。
保子はともかく、大杉と別居することを考えずにはいられなくなった。
『青鞜』誌上で交わされた廃娼論争をきっかけに、青山菊栄と野枝が対面したのもこの一月だった。
菊栄はその経緯をこう書いている。
最初、私と野枝さんとを会はせたがつたのは大杉さんだつた。
たしか大正四年の暮のこと、野枝さんが『青鞜』へ発表した感想文に私が無遠慮な批評を加へ、更に野枝さんがそれに答える文章を発表したことがある。
当時私は大杉氏らの組織してゐた月二回の社会問題の研究会『平民講演』に出席してゐた関係上、大杉さんと心易く、大杉さんは又野枝さんと懇意だつた。
それで大杉さんは私に向かつて『野枝さんに会つて見ませんか、きつといゝ友達になりますよ、』としきりに勧められたので、兎(と)も角(かく)も会はう、そして会つて双方の論点を明らかにしようといふことに極(きま)つた。
ところが大正五年の一月、定められた会見の前に、私は神近市子さんに案内されて生れてから今日まで只一度、歌舞伎座といふところをのぞいて見た。
丁度其時野枝さんも来合せてゐたので、予期せぬ初対面をした。
野枝さんはたつぷりした髪をいてふ返しに結びカスリの着物にお納戸色の無地お召(めし)の羽織をなまめかしく着流してゐた。
其格好が『青鞜』あたりで気焔を上げる新時代の婦人に似つかはしくない、伝統的な下町趣味を思はせたが、それにしては野枝さんその人の、何となくギゴチなくて粗雑な、生粋の江戸ツ子とは思はれぬ、銑錬(せんれん)されない感じと不調和でーー露骨に云へば地方出の料理店の女中でも見るやうな気がした。
(山川菊栄「大杉さんと野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号_p14)
野枝、菊栄、神近の三人の歌舞伎座での対面については、神近も『引かれものの唄』で言及している。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉と菊栄が小石川区指ケ谷町九二番地の野枝宅を訪れたのは、一月十五日だった。
菊栄がその日のことを、こう記している。
其後(※歌舞伎座での対面後)、約束の日に私が訪問すると、大杉さんは定めの時間よりよほど早く来てゐた様子で、青鞜の編輯室を兼ねた三畳の玄関の、雑誌や原稿で埋つたやうな部屋の中に、皿小鉢の並んだ小さな食卓を間にはさんで、野枝さんの当時の良人(りようじん)辻潤氏と差向ひで雑談に花を咲かせてゐた。
野枝さんは赤い手柄をかけた丸髷に結ひ、濃い紫の半襟から白粉(おしろい)のついた襟首をのぞかせ、黒繻子(くろじゆす)の襟のかゝつた着物を着、生れて程ない赤ん坊を抱きながら家事と客の接待のために忙しく出つ入りつしてゐた。
其日の野枝さんは全く忠実な可愛らしい『おかみさん』といふ感じがした。
一体其日は、野枝さんと私が『青鞜』で論じ合つた問題の中心、即ち売淫制度の問題、及び社会運動と個人の改善との相対関係について互(たがひ)の意見の異同を明白にするために会見する約束であつたに拘らず、誰も彼もそんなことはオクビにも出さず、正月気分で呑気に酒盛りをしてゐるので、私は少々ヂレ出した。
辻さんはチビリ/\と盃(さかづき)をふくみ、野枝さんは時々下物(さかな)を運んだりおかんを取(とり)かへたり序(ついで)に二言三言(ふたことみこと)愛嬌をいつては引込んだきり出て来ない。
男同士の世間話に時が移る許(ばか)りなので、私は時計を見て内々憤慨し始めた。
やつと灯(ひ)のつく頃ーー会見は三時の約束だつたーー野枝さんが暫(しばら)く話の仲間入りをする様子だつたので、肝心の話を始めて見た。
しかし其場の気分はモウそんな真面目な固苦しい問題をを議論し批評するには全然不適当になつてゐた。
その上、『私はそんなこと専門的に研究したことがないんですから分りません。』『でも私たゞ何だかそんなやうな気がするんです。』『でも私にはそんな風に感じられるんですから仕方がありません。』
私の質問や弁駁に対する野枝さんの答へは、いつもかういふ調子でつかまへどころがなく、一向気乗りがしないので、私も面倒になつてしまひ、たうとう肝心の問題はあやふやのうちに、雑談と混線して行方不明になつてしまつた。
その夜は『平民講演』の例会の日だつたので、私は幾度(いくたび)か大杉さんを促したが、『まだいゝ、まだ誰も来ちやゐるまい』といふやうなことで中々立たうとしない。
『では私だけお先へ』といふと『マアお待ちなさい、一所(しよ)に行(ゆ)きませう』といふ。
余り遅くなるので気をもむと、『ドウです、今夜は序(ついで)の事に此処(ここ)で遊ばうぢやありませんか、』と来る。
『でも私はどうしても会の方へ行きます。あなただつて皆さんが集まつてあなたのお話を待つていらつしやるのですから一寸(ちよつと)でもお出にならなけりや悪いでせう、とにかく早く行きませう、』
こんなことを幾度(いくたび)かくり返してやつと大杉さんが重い尻を持上げたのは七時過ぎだつた。
それから池の端の集会場へいく途中、大杉さんは、私が頻(しき)りに保守的、退嬰(たいえい)的、独善的だとして斥(しりぞ)けた野枝さんの思想上の立場を色々に弁護し説明して、野枝さんの其当時の境遇に非常に同情を表してゐた。
(山川菊栄「大杉さんと野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号_p14~15)
以上は七年後、大杉と野枝の死の直後の菊栄の追悼文の一節だが、菊栄晩年の回想である『おんな二代の記』では以下である。
『青鞜』に出た私の批評を見て大杉さんは、「いちど野枝さんに会ってごらんなさい、いい友達になりますよ」と、連絡をとってくれたので、お正月のある日、私は約束の時刻に野枝さんの家にいきました。
若い野枝さんは、小さなからだに大きな丸髷、赤ちゃんをねんねこおんぶにして、大きくふくれた背中を、子供のように小さく、いじらしい町のおかみさん風の姿でした。
玄関の三畳の間が『青鞜』の編集室で、まわりには新聞や雑誌や原稿などが乱雑につみ重ねられ、小さなチャブ台を間において、辻潤氏と向いあわせに、あがり口の障子に背をおしつけ、身動きもできないほど狭い中に、大杉氏と私が坐りました。
野枝さんはあいさつもそこそこにひっこんだきりでしたが、しばらくするとポツリ、ポツリお皿、小鉢をはこんでくる。
午後のことで食事どきでもないのにと思っているうちにお酒が出てくる。
野枝さんは徳利をもってイソイソと出たりはいったり、男たちにお酌をしたりするばかり。
私はがまんができず、大杉氏に、野枝さんと話をする約束で来たのだからと催促すると、もうすぐです。
もうちょっとというばかりでらちがあきません。
そのうち野枝さんが坐ったのでときをはずさず、私は、公娼は当然廃止すべきだと思わないか、あの公然の人身売買、業者の搾取を国家公認の制度としておくことを正しいと考えるか、その他聞きにかかると、野枝さんは、「私そんなこと調べたことないんですもの」と興味のなさそうな様子で、おかん徳利をもって立ってしまいました。
私はじりじりして何度も帰りかけましたが、「いっしょにいきますからもう少し」「ちょっと待ってください」と大杉氏にひきとめられました。
やがてやっと外に出ると電灯の火がちらつきはじめていました。
その夜、池の端には例の研究会があるはずでしたが、雑談会のようで、知った人もなくつまらないので私は早く帰りました。
来あわせた中に婦人は中年の人がひとりきり。
その人は歌舞伎の舞台からぬけ出して来たような江戸女で、いちょう返しにさんごじゅの根がけ、黒じゅすの襟のかかったきもの、物いい、身のこなし、まったくきっすいの下町っ子で、かつて馬場先生が「荒畑の細君はイキな人だとはきいていましたが、なるほど大したもんですなあ」といわれた、その荒畑夫人おたまさんでした。
その数日後、どこだったかの招待の劇場でまた野枝さんにあいました。
この日の野枝さんは子供を家において来て、いちょう返しに錦紗の羽織をひっかけた粋づくりでしたが、荒畑夫人とちがって、つけやきばの下町好みで板につかない感じでした。
美人というのではなくても、愛くるしくチャーミングなところのある野枝さんの魅力は、田舎の女学生そのままの、野生的で健康で、野花のような新鮮さにあるのではないかと思いましたが、大杉氏は野枝さんをあんな境遇におくのはかわいそうだ、みじめで見ていられないと同情していましたが、そのとき大杉さんにとっては、公娼よりも、野枝さんの解放の方が問題になっていようとは、勘のわるい私のしらないことでした。
(山川菊栄『おんな二代の記』_p216~218)
「その数日後、どこだったかの招待の劇場でまた野枝さんにあいました」とあるが、これは歌舞伎座での野枝、菊栄、神近の対面のことであろう。
とすると、『おんな二代の記』では、この歌舞伎座の対面が菊栄が野枝宅を訪問した「数日後」になるが、『婦人公論』掲載の「大杉さんと野枝さん」では歌舞伎座での対面後に野枝宅を訪問したとある。
「大杉さんと野枝さん」記述の方が、菊栄の記憶が鮮明だったと思われるので、菊栄は歌舞伎座での対面後に野枝宅を訪問したと推測する。
このころ教育雑誌の訪問記者から取材を受けた野枝は、自分の小学校時代について、こんなコメントをしている。
野枝の肩書きは「青鞜主筆」である。
私の小学校時代に、一番厭な思ひをしたのは、先生と先生との喧嘩の飛ば散りが生徒に及んだ事でありました。
……私達の受持ちの女の先生と、一つ下の組の女の先生とが大変に仲が悪くて……その一つ下の組の先生が図画の時間にだけ私達の組へ授業にいらしたのですが……始から終迄お小言の言ひ続けで……廊下で逢つても、何時も恐い目で睨みつけられるので毎日々々皆が不愉快に過しました。
(「教育圏外から観た現時の小学校」/『小学校』1916年1月15日・第20巻第8号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p312)
これは野枝が「嘘言と云ふことに就いての追想」で書いている、周船寺高等小学校四年時に体験した例の事件のことである。
★『宮嶋資夫著作集 第六巻』(慶友社・1983年8月)
★神近市子『引かれものの唄 叢書「青鞜」の女たち 第8巻』(不二出版・1986年2月15日 /『引かれものゝ唄』・法木書店・1917年10月25日の復刻版)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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