2016年05月11日
第161回『痴人の懺悔』
文●ツルシカズヒコ
『青鞜』六月号「寄贈書籍」で、野枝は木村荘太訳『痴人の懺悔』(ストリンドベルヒ著)と青柳有美『美と女と』を紹介している。
ストリンドベルヒの自伝の一部で氏の最初の結婚生活を書いたもので御座います。
この小説は是非誰にも一読して欲しいものと思ひます。
殊に多くの婦人達に……。
(「寄贈書籍」/『青鞜』1915年6月号・第5巻第6号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p230)
『痴人の懺悔』について、野枝はこう書いたが、野枝はこの小説をいたく気に入ったようで「私信ーー野上彌生様へ」でも話題にしている。
野枝はそれまでストリンドベルヒの作品をいくつか読んだり、土曜劇場で戯曲「父親」を見たりしたが、彼女はストリンドベルヒの作品を憎悪していた。
なんとか憎悪の念をもたずに読めたのは「女学生」だけだった。
しかし、芥川龍之介の遺書でも言及されている『痴人の懺悔』は、野枝のストリンドベルヒ観を一変させたという。
私は無自覚な無知な女の醜さを染々と見せつけられました。
一人の女の生活が一瞬にすぎた考へまでが真面目な最も率直な筆で隅からすみまで描き出されてゐます。
さうして、私自身の中にもさうした、無自覚な、女の習性が沢山うごめいてゐるのを否定する勇気はどうしてもありませんでした。
さうして私はそれが決して少数に属する特異の女でなく多数を占めた普通の女でしかないと思つたときに、本当に、しみ/″\嫌やな気持になりました。
さう云ふ女が一ぱいうよ/\世界に充満してゐると思つて御覧なさい、本当に、たまりませんわ……本当に、私ストリンドベルヒと云ふ人を、えらいと思ひましたわ、何と云つても真実なものには叶ひませんのね……。
(「私信ーー野上彌生様へ」/『青鞜』1915年6月号・第5巻第6号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p225~226)
ところで、『痴人の懺悔』は木村荘太が野枝に寄贈したわけだが、二年前の例の一件でふたりの仲は気まずい関係になってはいなかったのだろうか。
荘太は野枝にこの本を寄贈した意図を、こう書いている。
……私のほうからの和解の意志は、これに篭れというこころを含めて、「青鞜」に送ったら、これはそのころ、野枝の単独経営になっていたその誌上で、全部的に好意のある紹介がされ、そんなふうにしては通じるものがいまはありそうに思われて、明るい気がした。
あの、それから文学とは遠い生きかたをした女性の書くもののうちにたまたまされた文学者への想起にも、その後ストリントベルグぐらいしかあまりされていなかったのを見たりしたのにも。
(木村艸太『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想』/『日本人の自伝18 木村艸太・亀井勝一郎』_p228)
『青鞜』六月号「編輯室より」の野枝の発言を拾ってみる。
●毎号々々意に満たないものばかり皆様にお目に懸けなければならないのを本当に残念に思ひます。今月はまた、私の体が重くて少しも思ふやうに動きませんので毎日々々怠けてゐましたので思ふ程の原稿も書けずにこんなうすいものが出来ました。
●……一人で私はもがいてゐます苦しくてたまらないのです。私は今年の八月号をやすんで九月の紀念号からすこし変つたものにしたい、もつとひきしまつた、むだのないものにしたいと思つてゐます。
●此の頃婦人矯風会の決議で見ますと、六年間を期して公娼を全廃すると云ふやうな項目が見えました。
●一寸考へた丈けでも何百年と云ふ歴史をもつた、一つの職業として認められて来たものを、そして必要に応じて存在してゐるものを、さう一朝一夕に根こそぎの止(とど)めをさすと云ふ事が出来得るであらうかと云ふことを考へて見ますと実にそうした決議が滑稽に思へます。 あの人たちがとても六年間で、全廃さすと云ふ確信があるわけではなくたゞさうした熱心さとか意気込みとかを見せる魂胆かと思はれます。 あの人たちが一生かかゝつて或は一代も二代もかゝつて公娼を廃止したとて更に盛んな勢ではびこる私娼をどうするつもりなのだろうと私は思ひます。 私娼の流す害毒は公娼のそれにまさるとも決しておとると云ふことはない筈です。それは明かな事実です。 あの人たちは、もつと根底に横はつてゐるものをとりのぞくことをしないでゐるのです。
●この頃の社のさびしさつたらありません。どなたもお見えになりませんのでポツネンとしてゐます。在京の方でおひまの方は少しくお話にお出で下さいまし。
(「編輯室より」/『青鞜』1915年6月号・第5巻第6号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p227~229)
野枝と公娼についてだが、野枝の妹・ツタが瀬戸寂聴『美は乱調にあり』の中で、興味深い発言をしている。
ツタは再婚したのだが、その再婚相手は二十七も年上の男で、大阪と下関で廓(くるわ)をやっていた。
「姉は、あんな主義だったけれど、そのことで、私たちの商売をとやかくいったことはありません。 大杉もそうでした。そのかわり、当然みたいにお金だけはとられましたが。下関の私の家へもよく来ました。私の主人は年が年ですし、はじめは、姉や大杉を全然理解せず、つきあうことも嫌ってましたので、私は姉の手紙でいつでも駅までゆき、駅で金をわたして、つもる話をするという方法で逢っていたくらいです。でもしまいには主人もしだいにわかってきて、姉も大杉も出入りするようになりました」
(瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』_p46~47)
※木村荘太『痴人の懺悔』/国立国会図書館デジタルデータ
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★木村艸太『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想』(朝日新聞社・1950年5月30日)
★『日本人の自伝18 木村艸太・亀井勝一郎』(平凡社・1981年12月10日)
★瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』(岩波現代文庫・2017年1月17日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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