2016年05月12日
第162回 日常生活の日誌
文●ツルシカズヒコ
『新日本』一九一五年六月号(第五巻六号)に掲載された「日本婦人の観たる日本婦人の選挙運動」は、アンケートに回答するスタイルの記事で、野枝も回答を寄せている。
他の回答者は鳩山春子、矢嶋楫子(かじこ)、木村駒子、与謝野晶子、松井須磨子、津田梅子など。
以下、質問は『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「日本婦人の観たる日本婦人の選挙運動」(アンケート回答)解題から引用、野枝の回答は「結論」を意訳。
質問一/あなたは、日本婦人が選挙運動にたづさはることを、どうお考へになりますか。
加わってならないという理由はありません。
しかし、この度の総選挙に五、六人の婦人が携わったようですが、ああいう手段として使われながら、得々としてひとかどの運動をしたようを顔をしている人を気の毒に思います。
質問二/単に我夫であり、我子であり、、親族知人あるが故に、其政見の如何を問はず、其選挙運動を助けるというふ事は果たして適当な事でせうか。
社会問題にも政治問題にも興味を持つどころか、興味を持つに必要な知識さえ与えられず、それを不満に思わない婦人が多いのに、自分一個の政見を把持することができる婦人がいるのかどうか、はなはだ覚束ないと思います。
質問三/戸別訪問をしてあるくと云ふことに就いてのお考は、如何ですか。
戸別訪問は最も拙劣です。
質問四/婦人が選挙運動に携はる前には、政治的教養を必要としますまいか、選挙運動に携はるより前に先づ、政談演説自由傍聴の道を開く方が急務とお考へになりませんか。
社会的、政治的な方面に興味を持てる教養は身につけたいと思います。
今のところそういう方面に興味を持っている婦人はいないようです。
教育の欠陥が最大の理由です。
質問五/婦人が政治に携はるとして、其夫子等と政見を異にした場合は、どうすればよいとお考になりますか。
現実からかなりかけ離れた質問です。
しかし、もし私がそういう場合に遭遇したら、お互いの意見を尊重します。
(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p231~233)
野枝は『新潮』七月号に「私が現在の立場」を寄稿している。
『定本 伊藤野枝全集 第二巻』の解題によれば、『新潮』同号の「口絵」には一(まこと)と一緒に写っている野枝の写真も掲載された。
野枝のメジャー誌デビューである。
文芸誌『新潮』の創刊は一九〇四(明治三十七)年である。
私たちの最初の行動は外面的な反抗の行為で現はれた。
さうして世間の注目を引いた。
前に私達の重(おも)に考へたり、また書いたりした事は主として、私たちの先輩に対する不平であつた。
けれど、今私はすべて私の日常に這入つて来る種々な事象をどう取り入れるかと云ふことについてのみ考へてゐる。
私の書くものはその営みの或る一小部分の記録に過ぎないのだ。
本当に、それは平凡な女の日常生活の日誌に過ぎない。
私の書くものには何の技巧もない。
たゞ有りのまゝである。
さうして、私の書くものは今迄文学的作品として取り扱はれて来た。
併し私の気持では決してさう云ふ方面から価値のあるものではない。
私の書くものはすべての人がーー文字をもつたすべての人が書ける事柄であらねばならない。
それを何故私が公表するか、と云へば私の書くことは事実だ。
私の出遭つた事柄だけは曲げることなく偽はることなく書いてゐる。
殊に出遭つた後でその態度の間違つてゐたことを見出せばそのまゝ間違つてゐたと云ひ、適当であつたことはそのやうに書いてゐる。
婦人と男子は敵味方抔(など)と呼ぶものでは決してない。
私は理解ある人は決して婦人の味方だなどゝ云ひはしないだらうと思ふ。
たゞ公平な眼で見て貰ひさへすればいゝ。
婦人の位置が男子によつて堕(おと)されたとは云ふけれどもそれは婦人の方にも責めは当然負ふべきである。
私たちが目覚めたからと云つて直ぐに新時代が来たと云ふことは出来ない。
私たちが今ゆめ見てゐる世界は私達の幾代後に来るかわからない。
私達は一生さうした空想によつて努力を続けてゆくやうなものであるかもしれない。
併し、私はそれでもいゝ。
たゞ只管(ひたすら)に自分の日々の生活に出来る丈け悔いを残さないやうに努力してゆくことが出来さへすれば。
遂に私は一生万遍なき日常生活の平凡な記録を書くことのでみ終るかもしれない。
けれどもそれでもいゝ。
たゞ私がそれに嘘をまじえなかつたと云ふ自信さへあれば。
(四、六、一四)
(「私が現在の立場」/『新潮』1915年7月号・第23巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p250~252)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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