2016年06月04日
第238回 評論家としての与謝野晶子
文●ツルシカズヒコ
野枝は『新日本』三月号(第七巻第三号)に「評論家としての与謝野晶子氏」(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)を発表した。
作家としてはともかく、「評論家としての与謝野晶子」の批評であり、痛烈な批判だった。
婦人問題に関する発言において大御所的存在だっただろう晶子は当時、三十九歳。
『定本 伊藤野枝全集 第二巻』解題によれば、晶子は『太陽』一九一六年十二月号「婦人界評論」の「一人の女の手紙」で、大杉を「理性の破産者」と批判していたが、その大御所に二十二歳の野枝が果敢に反撃したのである。
晶子の評論集『人及び女として』(近田書店)が刊行されたのは、一九一六年四月だった。
その中で晶子は「私の思想にも実行にも私の生の自尊から出発した反省と慎重」を持ち、「実際的の立場から物事の観察と判断とを軽々しくしないやうに」心懸けているとあるが、野枝は晶子こそが「生の自尊から出発した反省と慎重」に欠けていて、「物事の観察と判断とを軽々しく」している張本人であると指摘している。。
けっこう長い批評なのだが、以下、抜粋要約。
●まず第一に「与謝野婦人は評論家としての凡(すべ)ての条件に外れた人」として、殊に「新らしき婦人問題に就いては絶対に発言を許されぬ人」という前提で、この批評を進めて行きたいと思う。
●晶子は「自分の過去なんかどうでもよいという気持ちになって私は現在の執着に向かう」という発言をしているが、自分の過去と向き合い自省する能力に欠けていては、評論などできるわけがない。
●青山菊栄から「よく知らないことに対して軽々しく口を出すことを慎んだらどうか」という意味の忠告をされた晶子は、「間違ったことでもなんでもかまわないから言って、その間違いを訂正して貰って知識を深くしてゆくのだ」と回答したが、そんなものが評論であっていいはずがない。
●いろいろな方面から事柄を観察し、それを自分で分析解剖し、さらに自分の有する知識や理論や感情に照らして最後の断案を下すというのが、批評家の当然踏むべき手続きである。しかし、晶子のやっていることは、その場その場のなんらの統一もない理屈を言っているだけである。
●晶子は夫が代議士に立候補した際、夫に付いて地方に行き戸別訪問をした。その経験から晶子は、無智遅鈍な百姓が多数をしめている日本で代議政治を始めたのは甚だしい時代錯誤であると憤慨しているが、これはあまりにも不用意な発言である。その自覚がないというだけでも、晶子には批評家を名乗る資格がない。
●晶子はこんなことを書いている。
「私は真の保守主義者と真の急進主義者の根強い争議と猛烈な戦闘を経た国でなければ真の文明は開けて来なくはないかと思っている。日本の現状にはまだ『真の』と形容すべき両主義者が少ない。彼等はいつでも利己主義的に妥協する。いつでも徹底を避けて安価な姑息に低徊する」
●しかし、晶子こそ不徹底極まる卑しむべき態度である。それは特に婦人問題に明瞭に現われている。常にふたつのものの中間にあって、双方に理解を持っているような顔をしている。その自覚すらないとすれば、やはり、批評家としての資格がない。
●晶子は「女もまた人類の協同生活を営む一組成分であることを意識する」と主張している。当然のことである。
●しかし、晶子はこうも言っている。
「我も人であるという自覚が近頃女子の間に起こって来たのは甚だ結構な現象ですが、その『人』というのには、今のところはもちろん、なお永久にわたってもなお、男子のそれにくらべて非常な割引をし、幾多の条件をつけねばないないのではないでしょうか。自分は進歩していると言われる欧州の婦人を見てもこの疑惑を消すことが出来ませんでした」
●女子が「人」であるということのどこに、割引をして考えなければならないものがあるのだろうか。女子が人間として男子よりどこが劣っているのだろうか。晶子はどこまでも因習から脱することのできない人である。
●晶子は『太陽』新年号の「心頭雑筆」に「これまでの自分の観察が粗漏であり、機械的であり自分の批評が模倣的であり固定的である事に気がついて驚いてこの過ちを改めねばならないと思っております」書いている。
●しかし、これは「私だけはこの自分の欠点を見ることができるのです」という程度の「お悧巧」を見せているだけなのだ。
●「間違っていました」という抽象的な言葉があるだけで、「なぜ間違ったのか」その原因を解明はせず、「これから改める」ということで許されてしまうのだ。晶子は世間というものをよく知っている。
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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