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2016年05月20日

第198回 金盞花 (きんせんか)







文●ツルシカズヒコ



 五月八日、野枝は午前中に十枚ほど原稿を書いた。

 午後は流二のお守りをして過ごした。

 前日の嵐がひどかったので、別荘の掃除が大変だと言って、婆やが午後から暇をもらったからである。

 この日の御宿の夕方は風がなく、野枝が御宿に来て初めての静かな夕方だった。

 妙に憂鬱になった野枝は支店のおかみさんを呼んで、女中たちと一緒にお酒を飲んで騒いでみたけれど、少しも酔えず、気がめいるばかりだった。

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 今もう一時近くですが……あなたの事ばかりが思はれて仕方がないのです。

 今頃はいい気持に眠つてゐらつしやるでせうね。

 私がかうやつてあなたの事を思つてゐるのも知らないで、憎くらしい人!(八日夜)


「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月九日・一信/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p361/「恋の手紙ーー伊藤から」/『大杉栄全集 第四巻』)





 五月九日、この日の御宿は野枝と大杉が勝浦へ行った日(五月五日の可能性が高い)のような、いいお天気だった。

 野枝は午前中、大杉宛ての手紙を書いた。


 私達のことが福岡日日新聞へも九州日報へも出たさうですよ。

 板場の話しではにも出たさうです。

 大ぶ騒がれますね。

 何んだか、何を聞いてももう痛くも痒くもありませんね。

 隅から隅まで知れた方がよござんすね、面白くつて。

 辻と二人の間こそ少しは自由でもあり、可なり意識的に考へる事も出来ましたけれど、其他の私の五年間の生活は……本当にいやになつて仕舞ひます。

 自覚どころの騒ぎではなかつたんです。

 まあ本当にどうしてあれでいい気になつてゐたかと思ふのです。

 あなたは私のさうした暗愚を見せつけられながら、どうして嫌やにおなりにならなかつたのでせう。

 私はそれが不思議で仕方がありません。

 本当に私はあなたによつて救ひ出されたのです。

 そして、まだこれからだつて一枚々々皮をはいで頂かなくてはなりません。

 これからは真直ぐに歩けさうな気がします。


「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月九日・一信/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p361~362/「恋の手紙ーー伊藤から」/『大杉栄全集 第四巻』)


『定本 伊藤野枝全集 第二巻』の解題によれば、『九州日報』(五月一日)には「伊藤野枝の家出ーー新しい恋人の許へ」という記事が掲載された。





 手紙を書き終えた野枝は、浜に出てみた。

 浜には人が大勢出ていて、一昨日(五月七日)の嵐で浜に打ち上げられたカジメなどを、みんなで獲っていた。


 皆な裸で海の中に飛び込んであげているのですよ。

 女も男も夢中になつて。

 それから帰つて、あんまりいいお天気ですから、ひとりで夕影の松の所に行つて見ました。

 そして、帰りに下のお寺金盞花(きんせんか)が綺麗に咲いてゐましたので、それを買つて来てさしてゐましたら、安成さんがゐらしたのです。


「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月九日・二信/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p364/「恋の手紙ーー伊藤から」/『大杉栄全集 第四巻』)





 安成はこの日(五月九日)、両国橋駅発午前八時の汽車に乗り、御宿駅に着いたのは十一時二十分だった(安成二郎「御宿行」/『女の世界』1916年6月号/堀切利高『野枝さんをさがして』_p54)。

 上野屋旅館に着いた安成は女中に名刺を渡し、野枝に取り次いでくれるように言った。

 安成の名刺を見た野枝は当惑した。

 野枝は当初、取材に応じることも原稿を書くことも断るつもりだったが、安成の原稿依頼に応じた。

 野枝は「申訳丈けに」の冒頭で、原稿依頼に応じた理由を安成へ宛てた手紙文の形式でこう書いている。


 ……それでもあんな、いやな汽車に四時間も揺られながら、わざ/\お出になつたと云ふこと丈(だ)けでも、何だか、お断はりすることが、大変むづかしいやうに思はれました。

 さうして少しお話をしてゐます間(うち)に、『仕事で来た』とお断りになつた程、あなたは記者商売の人達のもつ熱心さと執拗さを少しもお見せにならないで、どうでもよくはない癖に、どうでもいゝやうな顔をしてすまして、お出になるのが、単純な意地つ張りの私には、大変うれしかつたのです。

 それでとう/\書くことを承知致しました。


(「申訳丈けに」/『女の世界』1916年6月号・第2巻第7号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p373/安成二郎『無政府地獄 - 大杉栄襍記』_p102 ※「申訳丈けに」は『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』では、冒頭と末尾の安成二郎宛ての手紙分の部分をカットし「『別居』に就いて」と改題し収録されている)





 安成は三時の汽車で帰った。

 安成が帰ってから、野枝はこの日二通目の大杉宛ての手紙を書いた。


 今、安成(二郎)さんがお帰りになつたところです。

 あなたのけんかの話を伺いました。

 どうしてそんな乱暴なことを事をなさつたの。

 堺さんまでひどい目にお合はせになつたのですつてね。

 虫の居所でも悪かつたのですか。

 野依さんは何を云つたのですか。

 何だか気になりますわ。

 私の名も出たんですつてね。

 何んだかお目にかかつてお聞きしたいやうな事が沢山ありますわ。


「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月九日・二信/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p363/「恋の手紙ーー伊藤から」/『大杉栄全集 第四巻』)





 安成に会ったことにより、野枝の堀保子に対する考え方に変化が生じた。


 ……保子さんのことを昨日の手紙に書きましたが、あれは取消しませう。

 今日、安成さんから少しばかりお話を伺ひました。

 私の想像してゐる方とは大ぶ違うやうですから。

 もしさうでしたら、会ふだけ無駄だと思ひますから。

 本当に平凡な理窟ですけれど、神近さんと云ひ保子さんと云ひ私と云ひ、ただあなたを通じての交渉ですから、あなたに向つての各自の要求がお互いにぶつかりさへしなければ(何だか他に云ひ方があるやうな気がしますが)皆なインデイフアレントでゐられる筈だと思ひます。

 けれども、私はまだ恐れています。

 今、私があなたの愛を一番多く持つてゐると云ふ事に、自分の安心があるのではないかと云ふ事を。

 絶えずさう思つて注意してゐますけれど、今のところでは、別にそんな感情を少しも混つてゐないやうですけれど、その反省だけは怠らずに続けてゐます。

 あの松の木の下ではもつと/\種々(いろいろ)な事を沢山考へてゐたのですけれど、思ひ出せなくなりました。

 また思ひ出した時に書きませう。

 さびしいからお手紙だけは書いて下さいね、毎日。

 お願ひします。

 では左様なら。


「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月九日・二信/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p363~365/「恋の手紙ーー伊藤から」/『大杉栄全集 第四巻』)



★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★安成二郎『無政府地獄- 大杉栄襍記』(新泉社・1973年10月1日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 16:17| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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