2016年05月20日
第199回 私達の関係
文●ツルシカズヒコ
一九一六(大正五)年五月九日。
麹町区三番町の下宿、第一福四万館で夕飯をすませた大杉に、堀保子からすぐ来てくれという電話がかかってきた。
大杉が四谷区南伊賀町の保子の家に行くと、何か用事があるわけではなかった。
保子は涙ぐんでいた。
大杉は野枝の生い立ち、気風、嗜好などいろいろ保子に語った。
保子に野枝に対する親しみを持たせたかったからだ。
大杉はすぐ帰るつもりだったが、泊まった。
翌朝起きてからも、ふたりはしんみりといろいろ話した。
大杉は保子について野枝にこんなふうなことを書いている。
保子は無学な女だ。
しかし、生じつか学問のある女よりは、余程よく物の分る女だ。
しかし、保子の今の地位は、僕やあなたや神近の事に就いてとなると、保子をして殆ど一切の事に盲目ならしめてゐる。
あれ程しつかりした女が、只だ自分のゐる地位のために、こんなにまで眩まされようとは、一寸思ひがけなかつた。
あなたが保子と会つて十分話しして見たいと云ふのは、あなたの心持に於ては、甚だ結構な事だ。
けれども僕にはまだ、其の結果が恐い。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年五月九日夕/『大杉栄全集 第四巻』_p614~616)
五月十日、昼すぎに保子の家を出た大杉は、馬場孤蝶のところに寄り、夜の十一時までおしゃべりをした。
深夜、下宿に帰ると野枝からの二通の手紙が来ていた。
二通とも六銭ずつの料金不足だった。
神近からの手紙も来ていた。
神近は五月いっぱいで東京日日新聞社を退社するという。
五月中旬、大杉は再び野枝に会うために御宿に行き、五月二十七日まで滞在した。
大杉が上野屋旅館に来たとき、野枝は安成から依頼された原稿を執筆中だった。
『女の世界』六月号に掲載された「申訳丈けに」である。
大杉との関係について「申訳丈けに」の末尾で、野枝はこう書いている。
大杉さんとの愛の生活が始まりました日から、私の前に持つてゐた心持がだん/\に変つて来るのが、はつきり分りました。
前に云ひましたような傲慢な心持で、保子さんなり、神近さんのことを考へてゐました私は二人の方のことを少しも頭におかずに大杉さんと対していることに平気でした。
さうして私がその自分の気持に不審の眼を向けましたときに、また更に違つた気持を見出しました。
「独占」と云ふ事は私にはもう何の魅力も持たないやうになりました。
吸収する丈けのものを吸収し、与えるものを与へてそれで、お互ひの生活を豊富にすることがすべてだとおもひましたときに、私は始めて私達の関係がはつきりしました。
例へ大杉さんに幾人の愛人が同時にあらうとも、私は私丈けの物を与へて、欲しい丈けのものをとり得て、それで自分の生活が拡がつてゆけば、それでずん/\進んでゆければ私にはそれで満足して自分の行く可き道にいそしんでゐられるのだと思ひます。
(「申訳丈けに」/『女の世界』1916年6月号・第2巻第7号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p380/安成二郎『無政府地獄 - 大杉栄襍記』_p111~112 ※「申訳丈けに」は『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』では、冒頭と末尾の安成二郎宛ての手紙分の部分をカットし「『別居』に就いて」と改題し収録されている)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★安成二郎『無政府地獄- 大杉栄襍記』(新泉社・1973年10月1日)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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