2016年06月29日
第265回 大杉栄と代準介
文●ツルシカズヒコ
一九一八(大正八)年六月、野枝は安谷寛一に葉書を書いた。
宛先は「神戸市外東須磨」(推定)。
発信地は「南葛飾郡亀戸町二四〇〇番地」(推定)。
其後いかゞ。
お子達はお丈夫ですか。
私の処の赤ん坊もやう/\のことでなをりました。
手なしでいろんな仕事がちつとも進行しないので、当分の間仕事を持つて九州に行くことにしました。
此の家は今月一杯です。
秀世さんのおべゝは行きに持つてゆきます。
クララはもうたつたでせうか。
もしまだゐるやうだつたら、来月はじめに私はそちらを通ります。
多分特急ですから寄ることは出来ませんが、一分でも二分でも、まだもしゐるのなら会ひたいのですが、一度たづねて見てくれませんか。
(「書簡 安谷寛一宛」一九一八年六月推定/安谷寛一編『未刊大杉栄遺稿』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p46)
「私の処の赤ん坊」は前年九月に生まれた魔子、「此の家は今月一杯」は七月に亀戸から滝野川に引っ越すこと、「秀世さん」は安谷の子供。
クララはイワン・コズロフ夫人のクララ・サゼツキーのことで、コズロフ夫妻はモスクワ行きを計画していた。
野枝が魔子を連れて福岡県の今宿に出発したのは、六月二十九日だった。
翌、三十日に今宿に到着した。
避暑を兼ねていたが主目的は金策である。
矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、代準介が大阪の株界を引き、妻のキチと博多に戻ったのは、この年の六月だった。
代は住吉神社そばの住吉花園町(現・福岡市博多区住吉)に居を構えた。
野枝は主に従姉(いとこ)の代千代子の今宿の家で過ごした。
魔子は生後九ヶ月であり、千代子も三歳半の長女と魔子と同じ年の次女をかかえていた。
代は魔子を実の孫のごとくに抱き上げ、義絶心を柔らかく溶かした。
そのけじめとして、大杉を博多に呼ぶよう、野枝に伝える。
どんな人物なのか、この眼で見たくなったのだ。
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p139)
七月八日、野枝の留守中、大杉家は南葛飾郡亀戸町二四〇〇から、北豊島郡滝野川町田端二三七に引っ越した。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、月の家賃九円の小さな家だった(現・田端一丁目七番付近)。
和田と久板も一緒に移住、飼い犬の茶ア公も連れて行った。
引っ越した理由はまたも金銭的なことだった。
六月十六日
大杉君は近い内にひっ越すという。
それはこの日比谷地所ないの親方甚万というのが、大杉君とこへいって、「貴方が来られてから地所ないに刑事が盛んに出入りするので、賭博が出来ない。現に大分あげられているさまで、これまで滞った家賃を棒引にし、五十円出すから、助けると思って立退いて呉れ」といって来た。
そんなら助けてやろうというのである。
それで四五日前に甚万から大杉君へ生魚を送って来た。
僕の宅へも黒鯛とコチと□(不明)とを貰って、鯛の皮付で一飲みしたワケだ。
勿論甚万は口を利いただけ、これは大家から出したのだろう。
(『橋浦時雄日記 第一巻』)
七月十一日、大杉が林倭衛とともに野枝の帰省先・今宿に向かい、十四日に今宿に到着した(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。
『定本 伊藤野枝全集 第四巻』「伊藤野枝年譜」によれば、大杉は八月三日まで今宿の旅人宿・松井八十方に滞在したとあるあが、『伊藤野枝と代準介』にはその記述がなく、野枝の約一ヶ月の帰省中、野枝と大杉と魔子は「代の家と今宿で過ごし」とある。
このとき福岡市住吉花園町の代準介宅で撮影された大杉の写真が、『伊藤野枝と代準介』に載っている。
結局、大杉は代準介の眼鏡に叶った。
「牟田乃落穂」の中に、代準介の大杉への感慨が記されている。
大杉栄は世に恐ろしき怪物の様に誤り傳へられ居りしが、其個性に於ては實に親切にして情に厚く、予、初めて対面せし時等、吃して語る能はず、野枝の通訳にて挨拶を終へたり。
親交重なるに従ひ吃音せず談笑したり。
尤も演説又は官憲に対しては流暢に弁論をなす。
或る時、社会問題は容易に實現せざるべしと云ひしに、是は五百年千年、又は永劫實現せざるやも知れず、去り乍ら、理想の道程を縋(すが)り行くこと吾任務なりと
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p140)
大杉は今宿滞在中に『糸島新聞』に取材をされ、こう語った。
自分ハ社会改善ノ為メ全力ヲ傾注スル考ナルガ、如何ナル方法ニ依リ改善スルカハ具体的腹案モナク、又発表スル限リニアラザルモ、中央ノ権力ヲ今少シ自治団体ニ移シ、現在ヨリモ強大ナル団体ヲ作リ、以テ人民ノ生活ヲ容易ナラシメタシト考フ」
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p141)
さらに『部落解放史ふくおか』創刊号(一九七五年刊)に掲載された井元麟之「ひとつの人間曼荼羅」の中で、井元は代準介を紹介する文中で、大杉と野枝に言及している。
大杉栄は、大正七年に野枝夫人と共に、海浜に近いその実家(福岡市西区今宿)に滞在して、時には海水浴に興じながら一と夏を過した。恐らくこれは大杉夫妻にとって、生涯を通じて最も平和で幸福な日日ではなかっただろうか
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p140)
★安谷寛一編『未刊大杉栄遺稿』(金星堂・1928年1月10日)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★『橋浦時雄日記 第一巻 冬の時代から 一九〇八〜一九一八』(発売・風媒社 /発行・雁思社・1983年7月)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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