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2016年03月18日

第20回 反面教師






文●ツルシカズヒコ


 野枝が上野高女五年に進級した、一九一一(明治四十四)年の春。

 野枝が谷先生からの手紙に返信したのは四月末だったが、一週間が過ぎ、十日が過ぎても谷先生からの返事は来なかった。

 そして、とうとう五月の上旬のある朝、谷先生の友達から谷先生が自殺したという知らせを受け取った。

 谷先生は自宅の前の湯溜池で自殺を遂げたのだった。

 よくふたりで行った、あの思い出の溜池だった。

 野枝は何だか、当然のような気もすれば夢のような、嘘のような気もしながらホロホロ涙を落とした。

 あの長い最後の手紙は、野枝だけに宛てた谷先生の遺書だったのだ。

 暑中休暇に帰省した野枝は、生前、谷先生がいかに人望があり多くの人から尊敬されていたかという話を聞かされた。

 野枝はつくづく思った。

 その人望と尊敬が谷先生を殺したのだと。

 谷先生の自死に関して、周りはその理由をいろいろ取りざたした。

 家庭の問題、ラブ・アフェア、健康問題……。

 しかし、どれも根拠としては希薄だった。

 野枝は谷先生を追いつめた「実際の事柄」を知っていて、それは「ありふれた事柄」だと書いている。

 それを明らかにしたいが、関係者に対する谷先生の心遣いを尊重して、あからさまには言えないとしている。

 家庭問題でもなく恋愛問題でもなく健康問題でもないとすれば、谷先生が苦しめられたのは学校での教師間の人間関係以外に考えられないだろう。

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 野枝は谷先生の自死に遭遇し、さまざまなことを考えたという。


 彼女の生涯は、まるで他人の意志ばかりで過ぎてしまひました。

 しかも、彼女はそれに苦しめられつゝ、とう/\最後まで自分を主張する事が出来ないでしまひました。

 そしてその最後の瞬間に、彼女はやつと自分に返りました。

 けれど、何と云ふ無意味な生涯だつたのでせう。

 自分に返つたと云つた処で、たゞ他人の意志を拒絶した丈けなのです。

 自分に返つたと思つた瞬間には、もう生命は絶へてゐたのです。
 
 彼女自身で云ふ通りに、私は彼女を臆病だとも、卑怯だとも、意久地(いくじ)なしだとも思ひます。

 けれど、世間の多くの人達の生活を見まはすとき、私は卑怯であつても、意久地なしでも、兎に角、彼女程本当に、生真面目に苦しんでゐる人が、どれ丈けあるだらうと考へますと、気弱ながらも、とう/\最後まで自分を誤魔化し得なかつた正直さに対しては尊敬しないではゐられないのであります。


(「背負ひ切れぬ重荷」/『婦人公論』1918年4月号・第3年第4号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p40~41)





 注目すべきは、野枝が谷先生を題材にした原稿を四度も発表していることである。

「嘘言と云ふことに就いての追想」(『青鞜』一九一五年五月号・第五巻第五号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)、「背負ひ切れぬ重荷」、「遺書の一部より」(『青鞜』一九一四年十月号・第四巻第九号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)、そして「着せられた着物」である。

「着せられた着物」はAとBの対話形式でK先生について語り合っている。K先生は谷先生で、Aは野枝、Bは谷先生のことを知っている男性という設定である。

 A(野枝)は、こんな発言をしている。


 ……先生は、あたしに強くなれ強くなれつて云ひ通してゐたのよ。

 ……私は始めから出来る丈(だ)けわがまゝな、悪人になっておくんです。

 ……それが一番、自由な生き方ですよ、世の中には先生のやうに、いゝ子にされて縛(し)ばられて苦しんでゐ人がどんなにあるかしれませんね。

 でも出来る丈け自分を主張しないのはうそですよ。

 生命を与えられたからには出来る丈け生命を満足さすのが本当ですもの。

 私は何の為に生きてゐるんだか分らないやうなふやけた生き方はしたくないわ、先生なんて、何の為めに生きてゐるんだか分らないやうな生き方をして、まるで、生命を他人の為めにすりへらしてゐたから……その点から云へばあんな自分の生命を、そまつにした人はないでせうね。

(生命に)ねうちがあるとかないとか云ふ事は、自分で大事にするか、粗末にするか、どつちかで極まるんぢやありませんか……成るべく自分の生命は高く価値(ねうち)づける事ですよ。


(「着せられた着物」/『才媛文壇』1917年4月創刊号・第1巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第四巻』補遺_p483~487)





「遺書の一部より」と「着せられた着物」は、谷先生のことを知らない第三者が読んでもよくわからない内容である。

 野枝はわかる人にだけわかってもらえればよいとして、確信犯で書いたのだろう。

 いずれにしても、嫌なことでもたいがい時間がたてば忘れる気質の野枝が、四度も繰り返して原稿のネタにした谷先生。

 野枝にとって彼女とその自死は生涯忘れ去ることのできないことだったと思われる。

 つまり、野枝にとって谷先生は偉大な教師だったのである。

 人生の反面教師として。



★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




posted by kazuhikotsurushi2 at 14:06| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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