2016年05月24日
第211回 菊富士ホテル
文●ツルシカズヒコ
一九一六(大正五)年十一月二日ころ、五十里(いそり)幸太郎が本郷区菊坂町の菊富士ホテルを訪れた。
五十里は大杉の面前で野枝を殴ったり蹴ったりした。
五十里は野枝に好感を持っていたが、同時に彼女が時として見せる才気が勝ちすぎるところや妙に姉御ぶるところを嫌悪していた。
五十里が野枝に暴力を振るったのは、後者の感情が爆発したからだった。
しかし、野枝と五十里のつき合いは途絶えることはなかったという。
僕と野枝さんとは随分喧嘩もし、悪口も云ひ合つた。
けれどもそれは其の場限りで済んで了つて、次に会つた時にはもう和解をしてゐた。
こんな具合で二人の交友は、九月十六日の彼女の横死の直ぐ前まで、相変らずに続いて居(を)つたのである。
(五十里幸太「世話女房の野枝さん」/「婦人公論」1923年11月・12月合併号_p32~33)
この五十里と野枝の一件は『東京朝日新聞』(十一月十日)の記事になった。
その記事を参照した大杉豊『日録・大杉栄伝』は、こう記している。
五十里は二人の部屋に入ってくると、大変な剣幕でいきなり野枝の頭を殴り、保子から頼まれてきたと言ったらしい。
野枝も負けていず、取っ組みあいになり、ついには五十里のほうが負けて、男泣きに帰ったという。
大杉はこの間、拱手(きょうしゅ)傍観。
あとで野枝がかっかとするのを、しきりになだめる役だった。
野枝は保子や神近から非難されるのは、余儀ないことと思ったにせよ、突然殴られる乱暴に怒り、大杉は責任を感じて、低頭するほかないという図だった。
(大杉豊『日録・大杉栄伝』_p194~195)
大杉とが野枝が菊富士ホテルで同棲していたころについて、五十里はこんな回想も残している。
彼が野枝さんと菊富士ホテルに居た時分には、よく僕に羊羹の土産を催促したものだ。
彼は魚よりも肉が好きだつた。
しやれた果物と落花生、駄菓子を好んだ事を未だに覚えてゐる。
(五十里幸太「大杉くんのこと」/『自由と祖国』1925年9月号)
大杉は甘党で酒はほとんど飲めなかった。
大杉がワインを少し飲めるようになったのは、フランスから帰国してからである。
近藤富枝『本郷菊富士ホテル』によれば、菊富士ホテルの風呂は一階玄関の後ろ側にあり、四、五人は入れる広さだった。
大杉と野枝はいつもいっしょに風呂に入っていたので、その間、風呂番は女性が入浴している印の札を入口にかけていた。
買い物にもいつもふたりで出かけていた。
当時を知る菊富士ホテル関係者は、野枝についてこう述懐しているという。
「野枝さんてどんな人でしたか」
と聞くと、申し合わせたように、
「飾らない人でしたねえ。髪なんて結ったことなし、白粉一つつけるじゃあなし、小柄でそんなに綺麗な人だとは思わなかった。大杉さんはいったい野枝さんのどこが気に入ったんだろうなんて思ったものでした」
(近藤富枝『本郷菊富士ホテル』_p65)
日蔭茶屋事件が起きる前、村木源次郎が菊富士ホテルの部屋を訪れると、野枝がひとり涙ぐんでいたという。
さすがの彼女も、子の愛に引かされて、独りで淋しい時には想ひ出して沈んでゐた。
早く母親に生き別れた俺は、子供は成人の後きつと母親の行為と気持ちを充分了解するものだと話し合つた。
(村木源次郎「彼と彼女と俺」/『労働運動』1924年3月号_p48)
十一月三日、青山菊栄の満二十六歳の誕生日のこの日、山川均と菊栄は結婚し麹町区三番町の借家に新居を構えた。
十一月五日、大杉と野枝が山川夫妻の新居に結婚祝いに訪れた。
菊栄はこう記している。
その秋、私共が結婚すると二三日して、夜分大杉さんと野枝さんが私達の新居を訪(と)ふた。
それは十一月の始めであつたが、野枝さんは例のお召し羽織をゾロリと着流して見事な果物の盛籠をお祝ひにもつて来て呉れた。
確か其翌日、二人は葉山へ向ひ、そこで日蔭の茶屋の事件を呼んだのだつた。
(山川菊栄「大杉さんと野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号_p16)
それから(※結婚してから)二、三日すると野枝さんがくだもの籠をもって訪い、
「大杉といっしょに旅行するので急ぎますから」
と玄関だけで上がらずに帰りました。
それからまた二、三日して山川がひどく帰りがおそいと思っていると、夜中にくたくたに疲れて帰って来ました。
その日、大杉さんが日蔭の茶屋で神近さんに刺され、そちらに見舞いにいって来たのだそうでした。
(山川菊栄『おんな二代の記』_p237)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image