2016年03月08日
第4回 ノンちゃん
文●ツルシカズヒコ
「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』_p505)によれば、一九〇一(明治三十四)年四月、野枝は今宿尋常小学校に入学した。
岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(p62)と井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(p62)は、野枝の今宿尋常小学校入学を一九〇三(明治三十六)年としているが、「伊藤野枝年譜」を信頼したい。
今宿尋常小学校に入学した四月、野枝は満六歳だが、早生まれなので問題はないだろう。
野枝は毎朝おばあさんにお下げ髪や、当時たばこ盆といわれた髪型(頭の真ん中をとりあげて紐でむすぶ)に結ってもらい、手織木綿のつつ袖のキモノに、石版と読本と行李がたの弁当箱を風呂敷につつんで背にしばり、兄や妹と学校にでかけるのだった。
家から約二十分ぐらいの学校への道は、たんぼの畦道で、春はタンポポやレンゲの花が咲き、夏にはカエルや虫がとびだし、たのしい秋祭りがおわると、校庭の銀杏の葉は黄金色にいろづき、やがて鉛色の空からシベリア渡りの北風の吹く冬がやってくる。
野枝は頭からスッポリと赤いケットをかぶって妹と一緒にくるまりながら、風におわれるように道をいそぐのだった。
(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p21)
「石版」は昔のノート、その上に鉛筆代わりの「ろう石」で書き取りを行った。
「石版」「ろう石」は大正時代ぐらいまで使用されたようだ。
井出文子は「野枝がかよった今宿小学校は、現在も町はずれに建っている」と書いている。
井出が記している「現在」は一九七〇年代と思われるが、二〇一七年現在も福岡市立今宿小学校は現存している。
地図で調べてみると、今宿小学校は野枝一家が住む東松原の海沿いの借家があったあたりから、南の丘陵の方角、約一キロに位置している。
「家から約二十分ぐらいの学校への道」と井出は書いているが、子供の足で一キロ歩くのに二十分は妥当だろう。
「今宿小学校ホームページ」によれば、同小学校は一四〇年の歴史がある。
これが「作詞・野坂治 作曲・津留崎浩行 」の校歌 である。
一.渚を守る 松原の
松の雄々しさ父として
歴史はるかにしのびつつ
みんなで励もう明るく強く
ああ 今宿
今宿校に力あれ
二.緑したたる高祖山
山ふところを母として
希望はるかに仰ぎつつ
みんなで伸びよう明るく強く
ああ 今宿
今宿校に栄あれ
三.雲わきあがる玄海の
潮の香りを友として
理想はるかに望みつつ
みんなで進もう明るく強く
ああ 今宿
今宿校に光あれ
(「今宿小学校ホームページ」より)
もしこの校歌が野枝が卒業する以前に作られたものだとしたら、野枝も大声で歌っていたはずだ。
今宿尋常小学校に入学したころの野枝は、相当やんちゃだったようだ。
この頃から、ひどい負け嫌ひであつた。
兄達は極くおとなしかつたので、時に朋輩からいぢめられる事があつたが、野枝さんはそれを見ると承知しなかつた。
往々、思ひ切つた乱暴な加勢さへした。
(「伊藤野枝年表」_p4/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』)
「ノンちゃん」というのが野枝の呼び名だった。
友だちから「勝気な子」といわれていた野枝は、気の弱い兄をいじめっ子からかばうというふうだった。
学校の勉強ができるというより、知的好奇心のつよい子といってよかった。
(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p21)
……兄の由兵衛が内気な性格で近所の悪童連にいじめられて泣いていると、野枝は飛んでいって悪童連と取っ組合いの喧嘩をするほど勝気だった。
(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p61)
「伊藤野枝年表」(p5)によれば、十代のころの次兄・由兵衛は「貧困の中にあつて平然として発明考案に耽り、既に特許権を得たもの五六件あるが、製品販売力がないので何れも他に譲与して、ただ考案にのみ専念」していたという。
どうやら、次兄・由兵衛は今でいうオタク体質だったようだ。
野澤笑子(野枝の三女・エマ)が、小学校時代の野枝のエピソードを書き記している。
小学校に上がって平がなが読めるようになるとこんなことがあった。
言い付けておいた用事をやらないので懲らしめに押し入れに閉じ込めると、暫らく泣いていたがいつか静かになっている。
泣き寝入りしたのかと思ってそっと襖を開けてみると、何時の間に持ち込んだのか蝋燭に火を点して、壁に張った古新聞のかな文字を熱心に読んでいた。
昔の新聞はすべての漢字にかなが付いていたのを私も覚えている。
もう少し長じて、暇さえあれば手当たり次第に本を読んでいる娘に、少しは掃除を手伝いなさいと叱りつけると素直に「はい」と返事をして、勢いよくパタパタとはたきをかけていたのが、これも暫らくすると音が止んでいる。
もう終わったのかと来てみると、何と右手にはたきを持って突っ立った侭(まま)左手に本をかかえて読み耽っている。
そんなことは始終だったという。
(野澤笑子「子供の頃の母」/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「月報1」_p4)
「伊藤野枝年譜」(p505)によれば、一九〇四(明治三十七)年六月、野枝は今宿尋常小学校四年途中で叔母・マツの養女になり、榎津(えのきづ)尋常小学校に転校した。
野枝の父・亀吉にはマツ(一八七一〜)・モト(一八七四〜)・キチ(一八七六〜一九六六)、三人の妹がいたが、マツは長妹である。
山本直蔵・マツ夫妻は三瀦(みずま)郡大川町大字榎津六二〇番地(現・福岡県大川市若津西浜町)に住んでいた。
直蔵は商いをしていたらしいが、「博打うち」との説もある。
直蔵とマツ夫婦に子供がなかったこともあるが、困窮していた伊藤家の口減らしの養子縁組だった。
一九〇五(明治三十八)年三月、榎津尋常小学校卒業。
マツが離婚したためマツとともに今宿の家に帰り、四月から約三キロ離れた隣村の周船寺(すせんじ)高等小学校に入学した。
当時の学制は尋常四年・高等四年で、尋常六年・高等二年になるのは一九〇七年(明治四十年)からである。
福岡市立周船寺小学校も現存している。
ウィキの同校の「著名な出身者」は三嶋一輝(横浜DeNAベイスターズの投手)などだが、伊藤野枝の名前も記されている。
このころ、伊藤家の窮乏はマックスに達し、父・亀吉、長兄・吉次郎は満州に渡り、次兄・由兵衛も佐賀に出ていたと言われている。
外に働きに出て行った母が、夕暮れになっても帰宅しなかったことがあった。
妹・ツタがこう回想している。
妹ツタと二人で留守番をしていた野枝は、心細さもましてくるとともに、どうにも腹が空いてたまらなくなってしまった。
ーーそれで、台所の戸棚をさがして冷飯をみつけて塩で握って食べようと姉がいいました。
わたしはその飯が今夜の分だとわかっていたので、「お母さんの分をのこしておこうよ」と姉にいったのですが、姉は耳もかさず、「お腹が空いたのだからしかたがない」といって平然とあまさず食べてしまいました。
ツタはそのときの姉の情のこわさが忘れられなかったと回想している。
(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p22)
★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)
★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)
★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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