2016年05月06日
第144回 谷中村(九)
文●ツルシカズヒコ
大杉は谷中村の話には、すぐに見当がついた。
堺利彦からその話を聞いていたからだ。
ふたりは数日前に、こんな会話を交わしていた。
「谷中村から嶋田宗三という男が来て、たいぶ面白い話があるんだ。貯水池の沼の中にまだ十四、五軒ばかりの村民が残っていて、どうしても出て行かないんだ。で、県庁ではその処置に困って、とうとう来月の幾日とかに堤防を切ってしまうと脅かしたんだね。堤防を切れば、川から沼の中に水が入って来る。したがって、村民もそこに住んでるわけにはいかない。どうしても、どこかへ立ち退かなくちゃならぬ。そこで村民の方では、こう決めたんだそうだ。切るなら切れ、自分らは水の中い溺れ死んでも立ち退かない」
「ずいぶんひどいことをするな。しかし、よく村民にまだそれだけの元気があるもんだな」
大杉は官憲の無法を憤るよりも、むしろ村民の気概を不審に思った。
『ところが実際はさうでもないんだよ。もう三十年近くもいぢめつけられて困憊し切ってゐるんだし、それに今では自分等の村を壊す貯水池の工事なぞに雇はれて、ようやく生活している位なんだから、元気でそう決めた訳ぢやないんだ。自分等が溺れ死ぬのをまさかお上でもほうつちや置くまい。それにさうでもすれや、又新たに世間の同情をひくようにもなるだろう。位のところなんだね。』
(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』_p544~545/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』_p234~235)
「そうだろうな。その元気があれば、あんなにまで惨めにならんでもすんだのだろうから」
「しかし、嶋田という男は本当に死ぬ決心をしているらしいし、世間の同情などということはちっとも当てにしちゃいない」
「そりゃ面白いな。本当にひとり残らず溺れ死んでしまう方がいいんだ。なまじっか助けられたりしちゃ、それこそ本当に惨めなもんだからな」
「うん、しかし結局はやはりみんな助けられることになるんだろうな」
ふたりの顔には堪らない凄惨の色が見えた。
しかし、そうなっちゃつまらないという物足りなさも隠すことはできなかった。
ふたりの話は、かつてはソシアリストの有力な首領のひとりに数えられていたが、今は静座法が何かですまし返っている木下尚江のことに移った。
「しかし、その嶋田という男はやっぱり木下などのところへも行ったんだろうな」
「さあ、よくは聞きもしなかったが、今までの行きがかりもあることだから行くには行ったろうと思うがね。しかし、木下も田中翁の危篤のときに、自分ひとりが翁のそばに頑張っていて、誰ひとり寄せつけなかったとかいうんで、だいぶみんなの気を悪くしたようだね」
「そうだろうさ。あいつは、一時は谷中村の問題と言えば自分ひとりの問題のように騒ぎ廻りながら、あとでは振り返っても見ないでおいて、そうして田中翁が死ぬとなると、また自分ひとりの田中翁のような振る舞いをしたんだからな」
渡辺政太郎は長い間、谷中村の運動に関わってきている。
嶋田は渡辺にも会って話をしただろう、そして渡辺がそのことを野枝に話したのだろうと大杉は思った。
大杉は野枝の手紙から、十四年前のことを思い出した。
それは新潟の新発田から上京したばかりの正月のころだった。
東京学院の中学五年級受験科に通うことになった大杉は、牛込区矢来町の「若松屋」の四畳半に下宿していた。
或る寒い日の夕方、其の下宿にゐた五六人のW大学の学生が、どや/\と出て行く、そとにも大勢待つてゐるらしい、がや/\する音がする。
障子を明けて見ると例の房のついた角帽を被つた二十人ばかりの学生が、てんでに大きな幟(のぼり)みたいな旗だの高張提灯(たかはりちょうちん)だのを引つかついでわい/\騒いでいる。
『もう遅いぞ。駈け足でもしなくちや間に合ふまい。』
(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』_p548/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』_p238)
みんな大きな声でかけ声をかけて元気よく飛んで行った。
そのときの「谷中村鉱毒問題大演説会」と筆太に書いた幟の間に、やはり何か書きつけた高張の赤い火影がゆれめいて行く有様と、みんなの姿が見えなくなってからもまだしばらく聞こえてくる「お一二、お一二」のかけ声が、大杉の記憶にはっきりと浮かんできた。
それは大杉にとって、谷中村という地名を初めて頭に植えつけた出来事だった。
大杉が上京したのは一九〇二年(明治三十五年)一月だったが、そのひと月前、一九〇一(明治三十四)年十二月十日、田中正造が明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴するという事件が起きた。
直訴状は幸徳秋水が書いたものに、田中が加筆修正したと伝えられている。
学生の抗議行動が起きたのは、こういう流れからだった。
学生による鉱毒地視察が十二月、一月と行なわれ、各所で路傍演説会や救援金募集が実施された。
文部省や東京府がこれを禁止したため、学生の抗議行動が活発になった。
(大杉豊『日録・大杉栄伝』_p20)
それ以来、大杉は『萬朝報』に折々に報道され、評論される谷中村の記事を注意して読むようになった。
ちょうどこのころが、谷中村問題で世間が騒いだ最後のときだった。
大杉の谷中村についての関心も次第に薄らいでいったが、谷中村問題のおかげで、大杉は『萬朝報』の幸徳秋水や堺利彦、『毎日新聞』の木下尚江、早稲田大学の安部磯雄などの名を知った。
同時に新聞紙上のいろいろな社会問題に興味を持つようになり、ことに幸徳や堺の文章に心を惹かれるようになった。
一九〇三年(明治三十五年)、幸徳と堺が『萬朝報』を辞めて、非戦論を掲げる週刊『平民新聞』を創刊し、ソシアリストのムーブメントを起こしたときに、それに馳せ加わった有為の青年の大部分は大杉も含めて、足尾鉱毒問題の運動から転じて来た者か、あるいはこの問題に刺戟されて社会問題に誘い込まれた者たちだった。
大杉は自分にこんなことまでも思い出させた、野枝の手紙が発する不思議な力を感じた。
★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)
★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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