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2016年06月19日

第254回 カムレエドシップ






文●ツルシカズヒコ


 一九一八(大正七)年三月四日、牛込区市谷富久町にある東京監獄に面会に行った野枝は、そこで堺利彦と遭遇した。

 堺は大杉グループとは無関係の大須賀を巻き込んだ大杉の無謀を、非難がましく野枝に当てつけた。

 堺の腹の中を見せつけられた野枝は、軽蔑こそすれ腹立しいとは思わなかったが、憎悪と憤りを感じずにはいられなかった。

 野枝は今回のようなことはいずれ起こるだろうという覚悟があったので、大げさな心配や興奮は一切しないとかねてから心に決めていた。

 すべきことは、できるだけのカムレエドシップをつくして、拘束されている人たちのためにつくすということのみだった。

 堺はそうしたことに一番理解のある人でなくてはならなかった。

 また実際、野枝もそうだと聞いていたが、野枝の前にいる堺にはそうした温かさや寛大さを持った、首領らしさは少しも見ることができなかった。

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 堺は赤旗事件のことまで持ち出してきた。

 みんなは五、六ヶ月か二、三ヶ月と高をくくっていたのに、二年、二年半などの長い刑期を受けねばならなかったというようなことを堺は話し始めた。

 取り方によっては、堺は今回の事件に直面した野枝が案外平気でいるのを小憎らしく思って脅しているのだろうか、「大杉の無茶」がどのくらい他人に迷惑をかけているかを思い知れというつもりなのだろうか。

 野枝は堺のそういう言葉を聞くと、いっそう忌々しさがこみ上げてきた。


 例え何んにも知らないY(大須賀)が巻き添えを喰つたからと云つて、それは、さう云ふ危険な人達や場所に近よつたY自身の不用意からで、何もT(堺)氏の知つた事ではない筈だ。

 それで迷惑を感ずるなら、その迷惑を拒絶すればいゝ。

 その迷惑を何にも未練らしく龍子(野枝)の前に並べる事はないではないか。

 龍子は、眼前に腰をかけて皮肉らしい態度で話してゐるT氏に対する反感が湧き上がつて来るのだつた。


「監獄挿話 面会人控所」/『改造』1919年9月号・第1巻第6号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p)





 身内や同志が検束されるというケースに初めて遭遇した野枝が、そういうことを知りつくした堺に教えを受けず、すべてをひとりでやろうとしていることも、堺をムッとさせたのかもしれない。

 差し入れや、その他の細々としたことについて、堺はいちいち野枝に聞き糺(ただ)した。

「飯なんかどうするつもりか知らないが、三度三度入れる必要はありませんよ。あの中では、そんなに食べるもんじゃないし、一度くらいはあそこのも食う方がいいんだ。それに金だってどうせ続きはすまい。あんまり最初からよくして、それが続かないと、最初の親切がなんにもならんからーー」

 野枝だってそのくらいのことは最初から考えていたし、大杉にも注意されていた。


 で、食事の差入れは朝夕二度、朝は軽いパンと牛乳、夕食には少しいゝ弁当ときめていた。

 金ーーそれも続くまい、と見くびられゝば猶の事、どんな事をしても皆んなが未決にゐる間は続けなければならないと云ふ決心が固くなるのだつた。

 一つ一つさうしてT氏と龍子の話は龍子の反感を高めて行つた。

 ほんの一寸した事でも、さうした種類の侮辱を耐えへる事のできない龍子は、自分の胸が煮えかへるやうなおもひを、此の老爺の面前に叩きつけてやらうかと思つた。

 しかし、はしたない真似はしまいとおもふ他の気持が、E(大杉)との古い複雑な関係を思ひ出させて、やつとその激した心持を取しづめた。


「監獄挿話 面会人控所」/『改造』1919年9月号・第1巻第6号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p)


 ちなみに、このとき堺は四十七歳、野枝は二十三歳である。

 外に出て、同志のやさしい慰めの言葉を聞くと、野枝は今まで耐えに耐えていたいろいろな思いが、一時に湧き上がって来て、熱い涙がとめどもなく頬を伝った。

 彼女は歩きながら、幾度もハンケチで顔を覆った。

 そして、ひとしきり溢れ出た涙がみんな留守になってから、四、五日間感じたことのない、物悲しい、頼りなさが、しみじみと感じられるのであった。

 堺に対する反感は、それ以来、数日の間、折に触れて野枝の気持を熱くした。





 この一件について『東京朝日新聞』は「大杉栄等四名引致さる」という見出しで、こう報じている。


 ……四名は一日夜下谷区上野桜木町の有吉某方へ集合し酒食をなしたる後(のち)

 一杯機嫌にて吉原に繰り込まんと五十軒町六六地先に差蒐(さしかか)りたる際

 同番地のいろはバーにて戸張源之助(三六)なるものが泥酔して乱暴を働きしより

 同家の料理番と日本堤署の安田巡査とが同人を警察に連れ行かんとしたる処へ出会ひ

 大杉は何と思ひてか突然件(くだん)の男を警官の手より奪い取り更に四人にて巡査に喰つてかゝり

 酔漢は何処へか逃亡したるより同署の警官多数駆付けて前記四名を取押へ

 職務執行妨害罪として告発せしものなりと


(『東京朝日新聞』1918年3月4日)


 三月五日、野枝は魔子を橋浦時雄のところに預けて、区裁判所に行った。

 大杉たちに面会するのに四、五時間も待たされた。


東京区裁判所


★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 13:57 | TrackBack(0) | 本文

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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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