2016年07月07日
第281回 築地署(一)
文●ツルシカズヒコ
一九一九(大正八)年七月十七日、午後五時から京橋区南河岸(現・中央区八丁堀四丁目)の寄席・川崎家で「労働問題演説会」が開催された。
この会は大杉ら北風会が企画し、各派に呼びかけた公開演説会だった。
……チラシには、「弁士、服部浜次、荒畑勝三、吉川守邦、岡千代彦、山川均、堺利彦、外数名」とあったが(大杉栄の名は警察に遠慮したのである)、これは旧社会主義団体の、大逆事件後最初の演説会ではなかっただろうか。
……社会主義者自身で演説会を主催したのはこれが最初だったように思う。
いわば官憲の手のうちを見る瀬踏みでもあったのだ。
警察は三人入場すれば解散だと豪語していたので、わざと時間を延ばし人の集まるのを待った。
(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p201~202)
その日、野枝は疲れていた。
「今夜はもううちに引っ込んでいる方がいいよ」
大杉も出がけにそう言ったので、夕方まで家にいた。
しかし、帰省する人を送らなければならない急用ができて、野枝は東京駅まで行った。
大杉たちの会が解散されたら、同志たちは日比谷の服部浜次の家に引き上げることになっていることを聞いていた野枝は、「日比谷洋服店」に寄ってみることにした。
服部浜次の家はひっそりしていた。
大杉たちの会の様子もまだわからなかった。
野枝は尾行に様子を見に行ってもらうことにした。
服部浜次の妻と子供たちと一緒に日比谷公園をブラついて帰って来て、ひと休みしていると、服部浜次と堺利彦が引き上げて来た。
「どうでした?」
野枝は服部浜次にすぐに聞いた。
「大杉君はやられちゃったよ。荒畑もその他にもまだあるようだ、どうもえらい騒ぎだったからな」
服部浜次は顔をしかめながら上着を脱いだ。
「じゃあ、みんなあばれたんですね」
「なあにあばれるもあばれないもありやしねえ。大杉君と荒畑が表の縁台に突っ立っただけで、なんにもしねえうちに引っ張って行きやがった。なにしろすばらしい人なんだ。電車が止まっちゃったんだからね。あとまだだいぶゴタついたようだから、まだ引っ張られたろう」
服部浜次と堺は三階に昇って行った。
顛末を聞こうとする新聞記者たちがしきりに尋ねて来た。
間もなく築地の方からポツポツと同志たちが引き上げて来た。
ひとりふたりと帰るたびに検束された人々の数が増えていった。
みんなの口から、野枝はひと通りの様子を聞き取ることができた。
『日録・大杉栄伝』によれば、参加者が八百名あまり、築地署から署員数十名が来て入場を拒み、二時間にわたって交渉し、七時にようやく入場することができるようになった。
……午後七時、ころはよしと司会者服部浜次氏が入場すると、開会を宣する前に中止解散だ。
「馬鹿! なぜ解散だ! 署長の責任ある説明をしろ!」と、大杉、荒畑、私が入口の踏み台に立ちあがって街頭演説をはじめると、あちらでもこちらでも乱闘、検束、人が渦をまく騒ぎになった。
(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p202)
『日録・大杉栄伝』によれば、配置していた三百名の警官が出動し、もみ合いになり、十六名が築地署に検束され、会場付近はその後も数時間にわたり混乱、聴衆の一隊が野次馬を加えて銀座から警視庁へ押し寄せてときの声を上げる一幕もあった。
私もつかまって築地署へ行くと、留置場の喧騒は外まで聞こえて来る。
わめくやら、箱枕で羽目板をたたくやら、ケンケンゴウゴウ、耳を聾するばかりだ。
はいると大杉が私をつかまえて「オイ、きょうは多分やられるぞ! 暴れないでやられるのは馬鹿々々しい。トコトンやっちまえ!」といってニヤッとしている。
いわれなくも分っている。
第一おもしろくて堪らないのだ。
そこへ野枝さんがはいって来た。
急を聞いて差入れに来たんだが、警察では、ともかくあの騒ぎをとめてくれというのだそうだ。
野枝さんは私に小声で、郷里へいい送ることがあるなら聞いて帰るといった。
(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p202)
★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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