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2016年05月13日

第168回 野依秀市(三)






文●ツルシカズヒコ




野依『ヘエ、ヘエ、爾うでせう。

   まるでおノロケだ。

   さうさう、アナタは第三帝国の中村狐月君に恋して居るんですつてネ。』

伊藤『冗談言つちやいけませんよ。』

野依『ヘエーーだつてアナタはあの人が好きなんぢやありませんか。』

伊藤『イヽエ、嫌ひです。』

野依『嫌ひ。ホウト。嫌ひですか。

   オイ諸君伊藤さんは中村狐月君が嫌ひだとさ、

   覚えて居ててくれ給へ。

   ヂヤ僕は好きですか。

   好きでせうネ、

   こうして原稿を売りに来られるからには……

   僕の何処が好きです。』

伊藤『大きな声でお話をなさるところが……』

野依『ハ…ハ…ハ…こりア驚いた。

   宣しい、その理由を伺ひませう。』

伊藤『理由なんぞありアしませんよ。

   感じでございますもの。』

野依『デモ、琴とラツパとは違ひませう。』

伊藤『分りませんネ。』

野依『分らん奴があるもんですか……』

伊藤『ラツパはどうですか分りませんが、

   妾は、琴は嫌ひです。』

野依『琴は嫌ひですか、

   ハア……ハア……、ヂヤラツパは好きなんですね。

   僕はそのラツパなんです、

   ダガ僕は早稲田の大隈さんのように法螺(ほら)は吹きやしませんよ。』

伊藤『アナタだつて吹くぢやありませんか。』

野依「イヽヤ僕は言った事は必ず実行します。

   ダカラ、僕のは決して法螺ぢやないです。

   どうです伊藤サン、アナタも僕に感心したでせう。

   僕は何んでも強請的ですからね、

   アナタも此強請的に出会つては、

   やむを得ず感心でしせう。

   ダガ、本当にアナタは中村狐月君が嫌ひですか、

   どうしてです。』

伊藤『どうしてですか。』

野依『私は天真爛漫だから、

   好きなものは好き、嫌ひなものは嫌ひとハツキリ言ひいますが世間の人は好きなくせに嫌ひな風を装つたり

   嫌ひな癖に好きな風をしたりしますが、

   アナタも其実好きなんぢやありませんか。』

伊藤『さうぢやありません。』

野依『ソンならどうしてゞす。』

伊藤『大変迷惑をするんですもの。』

野依『どう迷惑をするんです。』

伊藤『方々へ行つていろんな事を言ふんですもの。』

野依『ハアー中村君が方々へ行つていろんな事を言ふので迷惑をするから

   嫌ひだと言ふんですか。

   ヂヤ僕がアナタの事を世間へ行つて何か言っても矢張り迷惑をしますか。』

伊藤『迷惑をしません。』

野依『コリア可笑しい。

   ハアハア成程、

   アナタが僕を好きだからそれで迷惑をしないと仰やるんですか…

   どうもアナタは却々巧い……

   一体アナタはどんな風な男が好きです。』

伊藤『妾はムジ/\して居るのが大嫌ひです。』

野依『ヂヤ僕なんどは大に好かれる訳ですな、

   私が平塚さんのところへ行つた後で、

   日日の角田さんが平塚さんを訪ねて、

   先達(せんだつ)野依君が来た筈だがどうでしたと聞いたら

   今迄コンナ可愛い気落ちの宣い人を見た事がなアいと言つて居たさうです。』

伊藤『さう言つてました。』

野依『ソンナに僕は気持ちの宣い男でせうか。』

伊藤『エヽ。』

野依『僕と一緒に居ると猶一層気持ちが宣いですよ…ハ…ハ…』

伊藤『本当に平塚さんもそう言つて居ましたよ。』

野依『だがそれ程平塚さんが言ふ程なら、

   僕が手紙をやつたのに、

   その返事ぐらゐ寄越したつて宣いぢやありませんか。

   要するに人間は嘘を吐(つ)かないで、

   各自の本領を発揮するのが一番ですよ、

   男は飽くまで男らしく女は飽くまで女らしくネ、

   ヂヤ、アナタは僕が世間へ行つてアナタの事を言つても

   少しも迷惑をしないと言ふんですね。』

伊藤『エヽ、迷惑しません。』

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野依『宣しい。

   どうもアナタのやうな女と話をする時は大いに褌を締めてかゝらなきアならない、

   どれ一つ帯でも締め直さう。』

   と、野依社長は椅子から離れたて着物を着直し乍ら、社員の一人の肩中(かた)をポンと叩いて……

野依『どうだ君、こういう風に質問しなくちや駄目だぜ、

   ダガこればかりはお手本と言つたところが、

   其人々に依つて違ふから一概には言へないが……

   ダガ伊藤サン、アナタは中村孤月君が嫌ひだつて、何処が嫌ひなんです。』

伊藤『ダツて女みたいぢやありませんか。』

野依『ホウ、何処が女みたいです……』

伊藤『口がうまい…………大嫌いです』

   …………のところは社の前を電車がヒドイ響を立てて通つたので聞き洩らした。

野依『どう言ふ風に口がうまいんです。』

伊藤『口のきき方がですよ。』

野依『ハアそうですか、

   アナタも却々口のきき方は巧い方ぢやありませんか。』

伊藤『人の事と自分の事は別ですもの。』

野依『併し中村君がアナタに恋して居るのは分つて居るでせう。』

伊藤『爾うでしやうか、本当か嘘から分りません。』

野依『中村君はお宅へ行きましたか。』

伊藤『来ましたよ、よく……』

野依『その時御主人はお宅においでゝすか。』

伊藤『居りますとも。』

野依『ヂヤお話も何も出来やしない。』


と言ひ乍ら袴の紐の両端をもつて野枝サンの椅子に近づき

野依『失礼ですが一寸紐を結んで呉れませんか。』

野枝サンは黙つて紐を結んで居た。


野依『ヤア有難う。』

伊藤『アナタは平塚さんがお好きですか。』

野依『私はアナタが好きです。』

伊藤『どうも有難う。』

野依『ネ、伊藤さん、

   僕には口がありませう、眼もあります、耳もあります、

   鼻もあります、その中でどこが一番いゝです』

伊藤『皆んな宣いです。』

野依『皆んな宣いと言ふのは、

   つまり皆んな悪いと言ふ事になりますネ。』

伊藤『マア、アナタの頭が一番宣う御座いますネ。」

野依『ハ…ハ…ハ…僕の頭が……』


と手で二三遍撫で回して





野依山田邦子さんも、アナタの頭の形は智慧のかたまり見たようで頭の恰好が頗るいいと言ひましたよ、』

伊藤『耳は余りよくありませんねえ。』

野依『眼はどうです。』

伊藤『宣いです。』

野依『口はどうです。』

伊藤『よござんす。』

野依『丹稲子(たんいねこ)は僕の耳がいゝつて言ひましたよ。』

伊藤『アヽ爾うでしたネ女の世界で拝見しました、

   山田さんはお出でになりますか。』

野依『病気の時に来て呉れました。』

伊藤『あの方は綺麗な人ですね。』

野依『アナタはまだ昼食(おひる)を食(あ)がらないんでせう、

   おごりませうか。』

伊藤『沢山です、朝食が遅いですから……

   野依さん、アナタは中津でしたネ。』

野依『エヽ爾うです、アナタは……』

伊藤『福岡です。』

野依『福岡ですか、同じく九州ツ児ですナ、

   僕はネ伊藤サン、爾う思うんです、

   アナタの様な女が十人ばかり集つてカフェーを開いたら屹度流行(はや)りますよ。

   そしてアナタ方が高等芸者になつて、

   来たお客の話相手になるんですよ、

   さうすれば屹度流行りますネ。』

伊藤『流行りませうネ。』

野依『どうですやつて見ちや。』

伊藤『お金がありませんもの。』

野依『資本は僕が出しますよ。』

伊藤『ソリア面白いでせう。』

野依『面白いですとも、

   さうすれば新しい女がカフェーを開いたって言ふんで、

   男の客は随分行きますよ、

   そしてそのお客を執(つかま)えてアナタ方がベラ/\喋つて大に煙に巻いてやるんですよ、

   それから、『新しい女及カフェー』と言ふ雑誌を出すんです、

   屹度売れますネ』

伊藤『エヽ………』





野依『平塚さんは、

   どうして奥村さんと一緒になつたんでせう。』

伊藤『好きなんでせう。』

野依『僕は爾う思いますね。

   今までの結婚は年上の男が年下の女をもらつたもんです

   自分より年が若ければ可愛いですから、夫は妻を可愛がり、

   妻も亦夫に可愛がられて夫婦は成り立つて居んです。

   処が、新しい女は男に可愛がられるよりも、

   男を可愛がつてやらうと言ふところから自分よりも年下の若い男を亭主にするんぢやないでせうか、

   恐らく平塚さんなどはさう言ふ意味で奥村さんと一緒になつて居るんじゃないですか。』

伊藤『平塚さんは上の方から可愛がられるのは厭なんでせう、

   下のものを可愛がる方が好きなんでせう。』

野依『何んだか奥村さんに紅い長襦袢などを着せて……』

伊藤『ソンナ事はありませんよ。』

野依『万事女のやうにさせて居ると言ふ噂ですが……』

伊藤『噂ですとも、ソンナ事はありません。』

野依『爾うですか。

   僕もそれ程平塚さんに好かれて居るんなら早く結婚を申込めばよかつたんでしたネ。』

伊藤『さうですネ、ですが、

   アナタでは奥村さんのやうにしては居られないでせう。』

野依『ハヽハヽハヽ伊藤さん、アナタのその帯の英語を一寸読んで聞かせて下さいナ。』

伊藤『読める方が沢山お出でぢやありませんか。』

野依『何んです、それは詩ですか格言ですか。』

伊藤『お話です。』

野依『アナタも平塚さんなどゝ一緒に吉原へ行つた一人ですか。』

伊藤『いえゝ。』

野依『アナタはあの事をどう思ひますか。』

伊藤『つまらない事でせう。

   あれは何んでも散歩の序手(ついで)に紅吉(こうきち)に誘われて尾竹さんの知つてる家へ行つたんでせう。』

野依『買ひに行つたんですつて……」

伊藤『ソンな事はありません。』

野依『僕等は男でもあゝ言ふ女を見ると気の毒に思ふのに、

   まして女同士の事だから一層気の毒と思うのが当然なのに、

   それを踏み込んで行つてヒヤカスなんテ……』

伊藤『ヒヤカスなんテ意味ぢやないんでせう、

   只、あゝ言ふ人達の生活を見に行ったんでせう、

  一寸分りませんからネ、

   紅吉さんに引つぱられて行つたんですよ。』

野依『紅吉と言ふ人は男みたいな女ぢやないんですか。』

伊藤『男と言ふよりも子供でネ。』

野依『何歳です。』

伊藤『二十三でせう。』

野依『二十三の女が二十一のアナタから子供だナンて言はれちや、

   やりきれませんねえ。』

伊藤『本当に子供ですネ。』

野依『同性の愛をしたとか何んとか言ふ事もあるんですか。』

伊藤『サウ言ふ事もあるかも知れませんよ。』

野依社長は野枝サンが持つて来た単行本の原稿をチョイ/\見始めた。


※堀場清子『青鞜の時代』(p135)によれば、野依秀一は『実業之世界』一九一二年十一月号に掲載された「怪気焔/平塚明子女史と語る」で、らいてうにインタビューをしている(筆者註)。

(『女の世界』1915年8月号・第1巻第4号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p416~420)



★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★堀場清子『青鞜の時代ーー平塚らいてうと新しい女たち』(岩波新書・1988年3月22日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 19:07| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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