2016年05月13日
第169回 野依秀市(四)
文●ツルシカズヒコ
野依『アナタの御亭主はアナタを可愛がりますか。』
伊藤『ソンな事を聞くもんぢやありませんよ。』
野依『言つたつて宜いぢやありませんか。』
伊藤『正直な事を言はないから大丈夫です。』
野依『ヂヤ、アナタは不正直な女なんですか。』
伊藤『分りません、
嘘を吐かうと思へばいくらでも吐けるんですもの。』
又、社長は単行本の原稿の上に眼を落して居たが、軈(やが)て野枝サンが中村狐月君に宛てて書いた原稿の一節を読み出した。
野依『ナンダ……この次に原稿を書くお約束をします……こりや何んです。
嫌ひだなんて言つて居て原稿を書く約束をするなンテどう言ふわけです。』
伊藤『だつて第三帝国へはズツト書く約束なんですもの。』
野依『アナタは第三帝国の人は嫌ひと言つたが
松本悟朗君は好きですか。』
伊藤『妾、知りませんもの。』
野依『だつて僕だつて今迄知らなかちたでせう
ソレでもアナタは好きだつたと言つてるぢやありませんか。』
伊藤『デモ知らないものは何んとも言へません、
あの人の書くものは余り好きぢやありませんが。』
野依『ヘエ、爾うですか。
本当にアナタの御亭主はアナタを可愛がりますか。』
伊藤『ええ、随分可愛がりますよ。』
野依『ハ…ハ…ハ…爾うですか。
アナタは可愛がられる方が好きですか。』
伊藤『好きですネ。
厭な人に可愛がられるのはいやですけれど。』
野依『ヂヤ、アナタは御亭主が好きですか。』
伊藤『好きです。』
野依『ネ伊藤さん。一体、ラブとはどんなものですか。』
伊藤『言へませんネ』
野依『どうしてゞす。』
伊藤『込み入つて来ますもの、
妾、込み入つた事は言へませんよ、
これで妾は、却々不自由な人間ですからネ。』
野依『アナタは家事の事も一切なさいますか。』
伊藤『やります。』
野依『それでこんなに腕が太いんですね。』
伊藤『さうです』
野依『女中はお使ひですか。』
伊藤『使つて居りません。』
野依『御家内は……」
伊藤『妾と子供と主人と母とです。』
野依『お母さんはアナタのですか。』
伊藤『いゝえ、主人のです。』
野依『ヂヤ時々喧嘩をしませう。』
伊藤『いゝえ、しません。』
野依『アナタにはお子供さんがおありでしたネ
可愛いですか。』
伊藤『可愛う御座んす。』
野依『どうして可愛いんでしせう、
ありや小さいからではないでせうか。』
伊藤『小さいばかりぢやありますまい、
何しろ自分のお腹(なか)から出たんですもの……』
野依『お腹から出た……
どうして日本の家庭ではソンな嘘をつくんでせうハ…ハ…ハ…』
と笑ひ乍ら傍らにあった時事新報の新刊紹介欄に『実行の勝利』(※野依の著作)の批評が載つて居たのが社長の眼に止まつた。
野依『僕はね、伊藤さん、
人から褒められると嬉しいんですよ。
人間は誰でも褒められるとうれしいもんですからね。
ただ、僕はそれを知っていながら、
人を褒めてお金をもらうことができないのが、莫迦なんですよ。
僕などは褒められるとその意気に感じて、
大いに働く気になりますよ』
野依社長は自著『実行の勝利』の批評を読み始めて居たが、不図(ふと)何やら文字が分らなかつたと見えてその新聞野枝サンの前へ差出し、
野依『これは何んと言ふ字でせう。』
伊藤『妾にも読めません。』
野依『……爾うですか……何んだ……
前人未発の真理……褒めたネ、
こう言はれると全く僕は嬉しいですよ、
人間と言ふものは莫迦なものですよ、
煽動(おだて)られとは知り乍らも矢張り褒められると嬉しい……
時にこの原稿はどうしませう。』
伊藤『どうしても買つ戴きます。』
野依『いくらです。』
伊藤『原稿の値段は分りませんが要る金の額(たか)は分つて居るんです。』
野依『それは幾何(いくら)です。』
伊藤『百五十円ばかりはどうしても要るんです。』
野依『ソリア問題にならん。』
伊藤『売れますよ。』
野依『ソリア売れましせう、
何も僕は本を出版して爾う儲ける必要もありませんが損をしちや困りますからネ、
この原稿なら先づず二百頁から三百頁どまりでせう、
さうすれば定価は先づ六七十銭ぐらゐするんですからネ。』
伊藤『随分廉いんですネ。』
野依『何しろ僕は女に甘いせいか、
随分、女の人から本を出版してくれと言はれますよ。
現に田村さんの小説も出しましたし、
尾島さんや岡田さんなどからも申込があるんです。』
伊藤『ですが小説とは違ひますよ、
慥(たし)かに私の本は一円二十銭位の本にはなりますよ。』
野依『冗談言つちやいけません。
併しまああアナタの言ふように一円二十銭の本になるとしたところが
今日は金がないから困ります。
今一つの大仕事を目論んで居るのでこれがうまく行けば少しは金も出来ませうが、
兎も角、お盆までにはどうか金を都合する積りです、
それでよければ買ひませう。』
再び安成さんが二階から上つて来て『見たり聞いたりの材料はありませんか』と言ふ。
社長は暫く首を捻つて居たが、軈(やが)て思ひついた材料を話してから、
野依『爾ふ言ふ訳ですがそれで宜いですか。』
伊藤『ヂヤ十日頃までに戴けるでせうか。』
野依『ソレが今、言つたやうな訳で、
ハツキリお請合が出来ないんです……
オイ、渋澤さんの事務所へ電話をかけて呉れ給へ……
これが約束手形の金だとか広告料だとか言ふのなら
何月何日に入ると云ふ事が分つて居ますから
ハツキリお答が出来るんですけれども……
併しお盆までにはどうかする積もりです、
社員にもお中元を出さなきやなりませんからネ、
アナタがお出にさへなれば、
何処へ持つて行つたつて買つて呉れますよ。』
伊藤『駄目ですよ、尤(もつと)も新潮社へは妾自身で行つたんではないんですが……』
野依『新潮社でも、植竹書院でも、
高島米峰(べいほう)さんのところでも……』
伊藤『妾、高島米峰さんは嫌ひー。』
野依『オイ諸君、伊藤さんは米峰さんが嫌ひださうだ。
どうして嫌ひなんです。』
伊藤『キザですからネ』
野依『アナタはどんな男が一番好きです。』
伊藤『サア、沢山ありますよ。』
野依『就中(なかんずく)。』
伊藤『分りませんネ、
嫌ひな人を除いた外の人は皆ンナ好きです。』
野依『どうもアナタは猾い、
……何んですか、アナタは口で発表した事を書かれても
少しも差支はありませんか。』
伊藤『本当なら構ひませんが、
大抵は間違つて書かれるんで困ります、
近頃でも二三度ありますよ、
今月の現代何んとかにも、嘘が書いてあるんです、
ですから、妾、話を書かれるのは嫌ひです。』
野依『それは聞く方の人の頭がしつかりして居ないから間違うんでせう。』
野枝『妾が慥に口で言つた事なら
書かれても一向差支はありませんけれど……』
野依『サウですか……
ヂヤこの単行本はどうします、
今、申上げたやうな次第ですから、
どちらなりと、アナタのお好きになさいまし。』
伊藤『外に少しお金を拝借するところもありますんで、
若しそれが出来なきア大変ですが、
それぢや明日電話で御返事しませう。』
野依『ヂヤ原稿はお返ししませうか。』
伊藤『いゝえ、おあづかり置き下さい。
女の世界の材料は随分大変でせう。』
野依『えゝ、併し男のものよりもやり易いですよ、
……フーンアナタは全く可愛い人ですネ若しアナタが恋した結果、
それが頂点に達した場合は今の御亭主とてもお別れになりますか。』
伊藤『ソリア別れます。』
野依『ホウ、こりア耐(たま)らん、
……ヂヤ仮に仮にですよ、アナタが私に恋したとして、
私に妻があつても構はんですか。』
伊藤『妻君をよして貰はなけりや困ります。』
野依『ヂヤ、あなたも御亭主をよすんですか。』
伊藤『ソリア無論ですとも。』
野依『併しそりア嘘ですナ。
何も先方に妻君があつたつ構はないぢやありませんか。』
伊藤『厭やです。』
野依『どうも僕はさう言ふ点がアナタ方の徹底しないところだと思ひますネ、
何も妻君があつたつて構はんぢやないですか、
自分さへ恋して居れば。』
伊藤『他にあつちやいけません。』
野依『ソコが分らんと思うナ、
何も妻君があつたつて構はなかろうがナ。』
伊藤『厭ですネ。』
野依『ヂヤ、さう言ふ場合になつて、
アナタは惚れ合つて一緒になつた御亭主をフリ得ますか。』
伊藤『フリ得ます。』
野依『ホウ、さうですかね。』
と、此時、給仕が上つて来て『飯田さんがお出(いで)になりました』と言ふ、
野枝サンは漸く引き上げ時を見つけたのであつた。
伊藤『御忙しいのに……失礼しました。』
野依『サウですか、
デワ、単行本の方もそのお積りで……
僕は出来る丈け誠意を以てお答えした積りですから……
イヤ始めてお目にかゝつて大変失礼を申しました、
悪しからず……』
伊藤『左様(さよう)なら。』
(『女の世界』1915年8月号・第1巻第4号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p420~423)
※野枝は翌年一九一六年の一月三日から四月十七日まで『大阪毎日新聞』に「雑音ーー『青鞜』の周囲の人々『新しい女』の内部生活」(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)を連載しているので、野枝が野依に売り込んだのはこの原稿だったのかもしれない。
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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