2016年07月29日
第308回 入獄前のO氏
文●ツルシカズヒコ
一九二〇(大正九)年四月三日と四日、牛込区の築土八幡停留所前の骨董店・同好会で、第一回黒燿会展覧会が開催され、大杉は自画像「入獄前のO氏」を出品した(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。
「入獄前のO氏」を、望月桂はこう評している。
かつて曙町の家に行つた時、壁にフクロウか狸の面のような、自画像とも思はれるが自らは猫だと云ふものが筆太にぬつたくつてあるのに気づき、大杉は絵も描かせれば描く男だなと思ひ、黒燿会の展覧会の時にウンとおだて揚げたら、これが民衆芸術の見本だ、商売人には批評出来まいと力んで、二三ども説明を要する自画像を描いた。
(望月桂「頑張り屋だつた大杉」/『労働運動』1924年3月号)
四月六日、大杉は和田久太郎と魔子と船で関西に旅立った。
四月七日に神戸着、二日間、安谷寛一が間借りしている家に宿泊した(安谷寛一「大杉の憶ひ出」/『自由と祖国』1925年9月号)。
安谷寛一「晩年の大杉栄」によれば、船で関西入りしたのはひとり分の汽車賃しかなかったからで、船だとひとり分の汽車賃でふたり乗れて食事つき、魔子は船賃も食事も無料だったからだ。
トルコ帽をかぶった大杉は、この季節には寒そうは茶のレインコートを着、上着なし、女ものの肩かけを首に巻き、コートの襟を立ててボタンをはめていた。
大杉は「うまいものを腹一杯食わして貰うため」に安谷を訪問したのだが、和田が大阪に向かった後、安谷は大杉と魔子にすき焼きを奢った。
安谷の家に戻ると、大杉は安谷が欧州大戦の前ころから講読していた外国の新聞雑誌などに熱心に目を通し始め、その作業は徹夜になった。
大杉はその中から借りていくものをチョイスしていたのである。
朝早く雨戸をくる音がしたかと思うと、ザアザア水の音がする。
やっと眼をさまして見ると、大杉が二階の廊下から戸外の道路に向って小便を放っていた。
(安谷寛一「晩年の大杉栄」/『展望』1965年9月・10月号)
四月八日は朝九時ごろ、大杉、和田、安谷、大杉の三弟・進、魔子の五人で、神戸のスラム街にある賀川豊彦宅を訪問した。
大杉と賀川がド・フリースの「激変説((Mutation Theory)」など生物学に話に花を咲かせているときに、賀川が大杉にある質問をした。
『大杉君、君の学説は何と云ふて定義すれば善いのだね?』
それに対する大杉君の答は簡単であつた。
『インデヴヰヂユアリスチツク(個人主義的)・サンヂカリスチツク・アナキズム』
大杉君が「個人主義」と「サンヂカリズム」とを並行せしめているところに彼の面目がある。
(賀川豊彦「可愛い男 大杉榮」/『改造』1923年11月号)
大杉は賀川からファーブル『昆虫記』の英訳本を六、七冊借りた。
大杉はその後、大阪や京都で組合活動家たちなどに会い、四月十二日に帰京した。
※賀川豊彦
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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