2016年04月17日
第91回 第二の会見
文●ツルシカズヒコ
野枝は荘太の話に耳を傾けながら、自分が書いた最後の手紙について考えていた。
野枝は辻との関係を破綻させることなく、荘太ともう一度会いたいと願ったのだが、荘太は自分の思いよりずっと強い意味に解釈したのだろう。
野枝は態度が不明瞭で誤解を招く手紙を書いた自分が一番悪かったという自責の念に駆られたが、しかし、ありのままの感情を書くことを心がけているので、ああ書かずにはいられなかったのだ。
日を改めて三人で話し合うのが一番よいと思った野枝は、荘太の話を黙って聞いていたが、時々、可笑しくなった。
荘太が野枝のことを、かなり安価なわからずやに値踏みしているように思えたからだ。
辻と荘太、どっちを選択するか?
野枝の中では迷いの余地はなかった。
……木村氏が矢張り同様に私を愛してくれて、Tと一緒にゐるよりも真に幸福に私自身の生活に向つて思ふやうに行けるのなら、私はたとひ、Tと十年一緒に生活してゐたからといつても、どんなにTが私の為めに高価な犠牲を払つてくれたとしても、それからまた辻からはなれる事がどんなに周囲の反感と、圧迫をうけるにしても、私は断固としてTからはなれる位の自信はあります。
その位の事が出来なくてどうしてTと同棲してゐる事が出来ませう。
Tは私の全生活を肯定し同情しまた理解してくれます。
そして一緒に、私共の道を開拓してくれます。
私の全体を自分の愛で包んでくれます。
ですから私は少しも不便を感じません。
強いてTからはなれ去る必要を感じません。
たとひ、木村氏が同様に或は以上に私を遇してくれるにしても今の場合私は自分がさまで必要を感じないかぎり私自身の内生活の上に、動揺を与へるような事をしたくはないのです。
けれど何れにしても、自分に対して持たれた愛を却けるといふ事は苦しいものだと思ひました。
(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p234~235/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p64)
野枝は福士幸次郎の手紙を読んで、荘太をおだてている周囲の人や、その手紙を得意そうに見せる人が無邪気なのか人が悪いのかよくわからなかった。
荘太はそういう手紙を見せて、野枝になんらかの暗示を与えたいのだろうが、自分がそんなつまらない人間だと思われていることに腹が立たった。
野枝はひと通り話を聞くと、
「今晩、帰って考えてみます」
と猶予をもらう逃げ口上を言った。
時計が午後十時を告げたころ、野枝は荘太の下宿を辞した。
赤坂に行くという荘太と一緒に出て、麹町の停留所まで行ったが電車が来ないので、半蔵門まで歩いた。
野枝と別れた荘太は反対の側を十間ばかり歩いてゆくうち、今家を出てから通りで、ふと何かの拍子に初めて野枝が浮ベた微笑を思い出した。
途端に荘太は直ぐ引き返して、野枝の後を追おうとした。
そして野枝を固く腕に抱かうとした。
二、三十間、荘太は走ったが真っ暗でそれらしい姿は目にはもう入らなかった。
野枝と荘太の一対一の対面について、らいてうはこう書いている。
第二の会見に於て木村氏は女の前に見事に落第した。
それは木村氏から受けた野枝さんの直接印象は手紙を透して感じたそれとはあまり相違してゐたといふことだ。
木村氏の人格そのものゝ価値が書いたものゝよりも遥に劣つてゐるやうに思はれたといふことだ。
なほこの会見に於て野枝さんの自尊心を傷け、ひいて木村氏に対する尊敬の念をひどく減じさせたことがある。
それは木村氏が案外自分を解してゐないのみならず自分の真価を認めてくれてゐないらしいのに気付いたことと、木村氏の友人によつて、自分が軽蔑してゐる「世間知らず」の女主人公のC子と比較されてゐたことだ。
是等のことに或る腹立たしさと、気まづさを感じたのは野枝さんとしていかにもさうありさうなことだ。
付言しておくが、C子の如き思切つて、しかも不快なほどセンシュアルな感じを人に与へる女は異性によつてのみ或価値を見出されるもので、同性からは多くの場合軽蔑される種類の女だ。
殊に野枝さんの如き女からは軽蔑にも値しない女のやうに見えるかも知れない。
(平塚らいてう「『動揺』に現はれたる野枝さん」/『青鞜』1913年11月号・3巻8号_p97~99)
※木村荘八展によせて〜兄荘太から解き明かす荘八
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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