2016年04月16日
第90回 牽引
文●ツルシカズヒコ
「牽引」(p27~28)によれば、辻の家を出た荘太は巣鴨橋まで馳けた。
電車の中で荘太は辻の苦痛を想像したが、自分と野枝の牽引と結合は自然だから仕方がないと思うほかなかった。
神保町から青山行きに乗り、半蔵門で降りると、新宿行きの電車はなかなかやって来ない。
荘太はそこから三、四丁、下宿まで馳け出した。
息せき切って着いた荘太は、入口のガラス戸越しに中を覗いた。
土間には見覚えのある下駄が脱ぎ棄ててあった。
荘太が階段を駆け上がり急いで部屋に入ると、野枝はムンクの『アウグスト・ストリンドベリ』がかけてある入口の壁際に座っていた。
息が弾んでなかなか言葉にならない。
荘太は野枝に軽く頭を下げた。
野枝も頭を下げたが、どう挨拶をしていいのかまごついた。
荘太は野枝の真っ白な血の気のない顔を見て驚き、恋をしている女の顔ではないと思った。
「たいへんお待ちになったでしょう」
「ええ、そんなんでもありませんでした。出がけに社に寄りますと人が来たもんですから、遅くなって。それから処がわからなかったもんですから、たいへんに探しました」
「処? 僕は手紙にちゃんと図を書いておいたでしょう」
「私、その手紙を拝見しません」
と言って野枝は首を傾げた。
荘太は不快を感じた。
番地を書かずに出した手紙さえ届いたのに、ちゃんと書いたものが届かぬはずはないと思った。
荘太は『魔の宴』では、こう書いている。
「あの手紙で、昨日と今日の昼前と待つたんですけど、来られないんで、電報打つたんですけれど、それでももし来られないと、と思つて、お宅まで行つて来たんです。」
「電報は頂きましたけど手紙つて申しますと?」
「え、あの手紙を見ていないんですか。あなたの会いたいつていう手紙の返事に、二十九日か三十日お待ちしますつて、出したあの手紙を?」
「拝見していません。」
とっさに、閃めくように私の頭に浮んだのは、あのいま、会つて来た、小柄な、若いのだか、年取つたのだか解らぬような顔をして、角帯をちょこんと締めていた男の顔だつた。
あの男が奪つたのだ、と思つた。
「あなたが僕に下すつた、あとのほうの二通の手紙は、あなたのかたには見せられずに出したのでしょうね。」と聞くと、やつぱり、
「見せませんでした。」との答えだ。
「しかし、僕の手紙があなたの手に渡らなかつたのはへんですね。」
「……」
私はデリカシーのために、あなたのひとの手にあるのではないでしょうか、というのは控えた。
(木村艸太『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想_p237~238/『日本人の自伝18 木村艸太・亀井勝一郎_p192~193)
一時間以上も待ち続けて、ようやく戻った荘太と自身の心境について、野枝はこう記している。
木村氏は、電車を半蔵門で降りて駆けて来たのでと云つて、何となしに、せか/\した調子でした。
私は、この間かなり落ち付いたらしい人だと思つたのに、わざとらしく見えるまでに落ち付かない様子にまづ木村といふ人からズーとつきはなれた別の人のやうな気がしました。
目前の人があの最後の手紙を書いた人とは何だか思ひにくう御座いました。
同時に私の気持は恐ろしく引きしまつて、ズーつと、沈んでしまひました。
そして、何でも伺ひませうといふやうな、余裕のある落ちつきを取る事が出来ました。
たゞ私の心の中に動いてゐるのは、先刻の手紙の中の「大変な運命の途云々」といふ言葉でした。
(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p229/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p62)
麹町区平河町の荘太の下宿で、荘太と野枝は向き合っていた。
野枝宛ての手紙を彼女に渡さなかった辻ーー野枝もふたりの男の価値はおのずからわかるはずだと、荘太は思った。
荘太は昂然として語り、ふたりの男の選択は野枝にあるはずだと迫るような語気で話した。
荘太はこの日の朝、福士幸次郎から手紙を受け取った。
荘太と野枝のラブを絶賛する文面だった。
荘太は感動のあまり涙を流した、その手紙を野枝に見せた。
自分は君のラヴが之れ程まで立派に出た事に就いて今迄知らない幸福を感じてゐる。
(無車君のC子さんとも違ふと思ふ。 思ひ切つて言ふならあれは無車君といふ人の人格のラヴだと思ふ。君のはさうでない。もつと覚めた意識が互ひに愛になつてる。いふ迄もない事だが。)
それだけ君のラヴが人事でない気がする。
万人のものだといふ気が更にする。
君一人の幸福でないといふ気が痛切に来る。
女の人のハス(夫)はそれは気の毒だ。
然し自分はこの結末がきつとよい事を信じてゐる。
ハスの問題は後廻しにしてもいいと思ふ。
気にする事は少しもないと思ふ。
(ハスに呉れといふ事は決して crime ではない。 今の処それは最上だ。君の出づべき当然の道だと思ふ。一番立派な事だと思ふ。)
(木村荘太「牽引」_p29/『生活』1913年8月号)
「無車」は武者小路実篤のこと、「C子」は一時、青鞜社の社員であった竹尾房子(宮城ふさ)、この年の二月に武者小路と房子は結婚していた。
野枝はこの手紙についてこう書いている。
……その手紙の中に白樺のM氏とかなりに青鞜社で迷惑を感じたC子氏の恋に比較されてあるのを読んで私は嫌な気がした。
……それ等の若い人たちの噂からうはさを生んで飛んだ違つた色を帯びたローマンスにでもなつて、また青鞜社の名でも出されては、困るというやうな事まで考えました。
(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p235~236/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p65)
野枝が読み終えると、荘太が言った。
「僕は今強くあなたを愛しています」
野枝は黙って肯いた。
荘太は懐ろに入れていた野枝の最後の手紙を出して尋ねた。
「僕はこの手紙をあなたが書いた気持ちをよくお伺いしたいのです」
「……ええ」
と野枝はしばらく間を置いてから言った。
「私いろいろお話したいことがあったのですけど、今日さっきの電報でただビックリしてしまったものですから、今、ちっとも何だかわからなくなってしまっているのです」
荘太は野枝が自分に牽引されていると解釈していた。
自分は辻より優良で、野枝の真の幸福は自分の手中にのみあると思っていると言った。
ただ自身が欲するままに圧倒して、野枝を奪いたくない、ただ自然な結合の前に謙虚に跪(ひざまず)きたいのだと長く話した。
野枝の額にたらたら汗が流れ始めた。
野枝はしきりにハンカチでそれを拭いた。
荘太が尋ねた。
「で、あなたには辻さんに対する愛があるのですね」
野枝が即座に答えた。
「ええ、あります」
荘太はまたいらいらした。
どうにでもなれという気になった荘太は、なおも話し続けた。
自分の過去や現在についても打ち明けた。
野枝の書く才能を買っていた荘太は、自分が伍するグループで野枝の才能を開花させてみたかった。
荘太は仲間たちのことを話し、女には今またさらに進んだ問題が展けている、そのためにはただ女が飛躍することだ、僕はそのすべてを備えていると語った。
荘太は高村光太郎の詩「失はれたるモナ・リザ」のモデルであり、光太郎の愛人だった吉原の娼婦を自分が奪った話もした。
嵐のように湧き起こる創作意欲に駆られて書き始めた小説も野枝に見せた。
野枝は終始、俯いて聞いていた。
荘太の話す調子が軽くて口早やなので、まとまったものとして頭に入って来なかった。
パッショネイトな言葉で語られても、本体のパッションが何も野枝には伝わらなかった。
多血質で動かされやすい野枝だったが、荘太の饒舌には共鳴するものがなかった。
とにかく、野枝の気分は逸れてしまった。
★木村艸太『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想』(朝日新聞社・1950年5月30日)
★『日本人の自伝18 木村艸太・亀井勝一郎』(平凡社・1981年12月10日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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