2016年03月14日
第13回 伸びる木
文●ツルシカズヒコ
野枝はこの閉塞状況を突破するために、叔父・代準介に手紙を書いた。
自分も千代子のように東京の女学校に通わせてほしいという懇願の手紙である。
それは自分の向上心、向学心、孝行心を全力でアピールする渾身の毛筆の手紙だった。
三日に一通ぐらいのわりで、しかも毎回五枚十枚と書きつらねてある。
キチさんの話では、とにかく「よくもまあ倦きもせんものだと思うぐらい『東京で勉強すれば私はきっと叔父さんや両親に御恩がえしできるだけの人物になれる。なんとかしてもらえないか』と自信満々に訴えてきましてね」
(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p65)
野枝が書いた手紙は残っていないが、次のような内容だった。
私(ノエ)は、叔父叔母を実の父、実の母と思っています。
「千代子姉も実の姉と思っています。
私はもっと自分を試してみたいのです。
もっともっと勉強してみたいのです。
できれば学問で身を立てたいとも思っています。
一生を今宿の田舎で終わるかもしれませんが、その前にせめて東京をしっかりこの目で見てみたいと思っています。
大きくなったら、必ず孝行をさせて頂きますので、どうぞ私を上野高女にやってください。
ご恩は必ずお返し致しますので」
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p54)
下谷区下根岸の代一家の借家の隣りには、大衆小説家の村上浪六が住んでいた。
一八九一(明治二十四)年、小説『三日月』でデビューした浪六は一躍人気作家となり、大衆小説家として不動の地位を占めていた。
浪六の小説は江戸時代の町奴(都市に住む無頼者)を主人公にした作品が多く、彼らの頭髪が三味線の撥(ばち)の形に剃った髪型だったので、浪六の小説は「撥鬢(ばちびん)小説」として親しまれた。
代準介は村上浪六との親交が始まった経緯を自伝『牟田乃落穂』に書き残している。
夕刻、縁先にて食事をなすに、何時も赤毛の小犬来りて馴れ親しみければ、紙片に「この犬はどちらの犬ですか、名は何と申しますか」と書いて首輪に結びつけたり。
犬は戻って、また現れた。
首に新たな紙片を付けている。
「村上の犬です。御贔屓に願います」
とある。
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p50)
当事の東京下町のゆったりした時間の流れと、人間関係の大らかさが感じられるエピソードである。
村上浪六の三男で女性史や服装史の研究家である村上信彦によれば、文学的文壇的評価はともかく、当時の浪六の原稿料の高さは他の追随を許さなかったという。
……「三日月」を春陽堂から出版したときの契約は「當時の最高原稿料の三倍」だった。
明治三十三年に『大阪朝日新聞』に書いた「伊達振子」は、尾崎紅葉の新聞小説が一回二圓、流行作家の江見水蔭が八十錢だったのにたいし、一回四圓であった。
また昭和に入って講談社の雑誌に書きまくったときの稿料も菊池寛以下では應じなかったとのことである。
(村上信彦「虚像と實像・村上浪六」/『思想の科学』・1959年第10号/『明治文学全集89』_p408)
矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、犬がきっかけで始まった代準介と村上浪六との親交は深まり、代は霊南坂に住む頭山満を浪六に紹介したりもしている。
代準介は哀願の中に矜持のある野枝の手紙を、浪六に見せて相談をした。
男文の達筆で文章もしっかりしている野枝の手紙を読んだ浪六は、野枝の望みをかなえてあげるべきだと助言した。
代キチは野枝の気性の激しさや利かぬ気を知って、諸手を挙げなかったが、準介は決断した。
「伸びる木を根本から伐れるもんか」
伊藤博文がハルビン駅で韓国の民族運動家・安重根によって射殺されたのは、一九〇九(明治四十二)年十月二十六日であった。
野枝の上京が決まったのは、ちょうどそのころと思われる。
野枝は今宿の谷郵便局を辞め、この年の暮れに上京、下根岸の代家に寄宿し、女学校編入学のための猛勉強を開始した。
野枝の妹・ツタは福岡市内に女中奉公に出て、給金一円五十銭のうち一円を今宿の母に送ることにした。
上京した野枝はおそらく代準介に連れられ、浪六の元に挨拶に行ったことだろう。
このとき、村上家には生後九か月の男の赤ちゃんがいたはずだ。
村上信彦である。
ちなみに浅沼稲次郎暗殺事件の実行犯、山口二矢は村上浪六の孫(浪六の三女の次男)であり、村上信彦は山口二矢の伯父にあたる。
ともかく、貧しい瓦職人の娘ゆえに、地元の女学校に入ることすら諦めざるを得なかった野枝だったが、人生で最初に遭遇した難関を自力で突破、運命を切り拓いた。
……このときはっきり心に決めたにちがいない。
東京に行こう。
そして女学校に入ろう。
勉強してひとかどの人間になりたい。
わたしはきっとなれる、と。
すでに長崎で都会生活を経験していた野枝は、都会こそ立身出世や栄光をもたらすところだと知っていた。
野枝の計算は的確だった。
叔父代準介は、東京…に家をかまえ、職工を六人つかって町工場を営んでいた。
一種の侠気のある彼は、しばしば苦学生(当時自分で学費をかせいでいた学生)をおいていたので、野枝はそれに眼をつけたのである。
野枝は目標にむかって肉薄した。
……彼女のぶ厚い手紙が、三日に一通の割で東京の代家に届けられた。
そこにはおしつけがましい熱心さで、東京で勉強しさえすれば……きっと将来叔父さんや両親に恩返しができる、どうか援助して女学校に行かせてほしいという主張がめんめんと書かれていた。
(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p31~32)
★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)
★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)
★『明治文学全集89』(筑摩書房・1976年1月30日)
★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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