2016年05月08日
第151回 待合
文●ツルシカズヒコ
大杉は堀保子とは、もう八、九年ほどきわめて平和に暮らしていたが、大杉が野枝の家を訪れたときには、いつも保子の機嫌はよくなかった。
少なくてもいつも曇った顔をしていた。
野枝についての何かの話が出るときも同様だった。
そしてそのたびに大杉は、ただ心の中で軽く「馬鹿ッ」と笑っていた。
二月のある日の晩だった。
保子が大杉の机のかたわらに来て、いつも何か長話があるときに決まってするように、座布団を持ってきて妙に改まって言い出した。
「あなたは何か私に隠してやしませんか?」
「いや、何も。だが、なぜそんなことを言い出すんだい」
大杉は筆を置いて保子と火鉢に差し向かいになった。
「きっと何も隠してやしませんね」
「ああ、何も」
「それでは私の方から聞きますが、このごろあなたは野枝さんとどうかしてませんか?」
「いや、そんなことはない。ただ折々、遊び行くだけのことさ」
「それではもうひとつ聞きますが、このごろあなたはふたりきりで、どこかを歩いてやしませんでしたか?」
「うん、一度ちょっと一緒に歩いた」
「それ、ごらんなさい。やはり隠しているんじゃありませんか」
「いや、それはちっともそんな意味のことじゃないんだ。実はーー」
大杉が保子に事情を説明し始めた。
二週間ばかり前、大杉が同志の家に遊びに行ったときのことだった。
『青鞜』の一月号をまだ受け取っていないと大杉が言ったので、同志のひとりが野枝のところへ行ってもらって来ることなったが、あいにく野枝の手許には一部もなかった。
しばらくすると、野枝が大杉が遊びに行った同志の家にやって来た。
小売店から一部入手したので、届けに来たのだった。
大杉には尾行がついているにもかかわらず、野枝は大杉と一緒にその家を出た。
ふたりは水道橋まで電車に乗り、そこで別れた。
電車が混雑していたので、ふたりは離れた席に座った。
ただそれだけのことだったーーと、大杉は保子に話した。
しかし、保子はまだ疑い深い眼をしていた。
「ふたりで歩いたのは、それっきり?」
「ああ、それっきりだ」
「でも、あなたが野枝さんと一緒に待合に入ったのを見たという人があるんですがね」
保子は少し声を震わせながら言った。
大杉はあまりに意外な話なので口を開いて笑った。
大杉はそもそも、待合なぞというものを知らない男だった。
「へえ、誰がいったいそんなことを言ったんだい?」
保子の表情が少し和らいだ。
彼女によれば、同志のひとりが吹聴しているという。
大杉は尾行の警察の奴がその同志にいいかげんな情報を流し、その同志が話を大きくでもしたのだろうと思った。
保子の誤解は解けたようだったが、大杉はこう釘を刺された。
「しかしね、あなた、野枝さんも御亭主持ちなんですから、そんな噂を立てられてもお困りでしょうし、なるだけふたりきりで歩くなぞということは、これからお気をつけなさいね」
大杉は野枝にすまないことをしたと思い、そして少し困ったことになったとも思った。
大杉は野枝のことを得難い同志になる逸材だと見ていたので、同志たちに注意をした。
「今そんな噂をされちゃ困るんだよ。あの女も、女一通りを越したずいぶん自尊心の強い、つむじ曲がりなんだからね。そんな話を聞いちゃ、せっかく僕らに接近しかけているのを、すぐに怒って逃げ出してしまうよ」
そして、大杉はそんな気は毛頭ないことも話した。
しかし、面白半分に冷やかす同志もいた。
「しかし、あなたが野枝さんを恋の対象にしたら少し可笑しいな」
「馬鹿ッ」
大杉は軽く打ち消したが、ちょっと気にかかったので問い返した。
「しかし、もしそうとして、なぜそれが可笑しいんだ?」
「だって、あんまり釣り合いがとれませんからね」
「なぜ釣り合いがとれない?」
大杉はなんだか少しムキになっているよう見え、それにそばにいた三、四人のものまでが、妙に自分の顔を見つめているように感じたので、
「馬鹿だな、君は」
と言って笑ってゴマかした。
野枝に対しては、女であるし、それに例の新しい女ということから、とかく仲間内では評判が芳しくなかった。
やはりそのころ、堺利彦も笑いながら言った。
「このごろ、野枝さんとはどうしてるね」
「別にどうともしてやしないよ。ただ折々に遊びに行くだけのことさ」
堺が何か言いたそうな気配を感じた大杉は、面倒臭くなって言った。
「来月の『新公論』見てくれたまえ。その最初の方に、ふたりの関係が明らかにされているから」
「うん、そうか」
堺はそう言ったまま、何かを考え込んでいるようだった。
大杉はそんなことをひとつひとつ詳細に思い出した。
印刷所で野枝を待っていた二時間の間の、野枝が印刷所に来てびっくりする笑顔を思い浮かべながらの、焦慮とともに湧いてくるいろいろな回想を、幾度となく繰り返すのだった。
野枝から手紙を受け取るまで、大杉が抱いていたものは友情だった。
思想や感情に共鳴する濃い友情だった。
もっとも、それが恋になりはしないかという予感がないことはなかったが……。
しかし、二十前後のころをかぎりに、もう十年ばかり恋らしい恋の香を嗅いだことがなかった大杉だった。
そして、その間、牢獄また牢獄に暮らし、政治的叛逆の野心にのみ駆られていた大杉だった。
そして、フリーラブ論者でありながら、世間からの「恋の負担」にもまったく臆病になっていた大杉だった。
大杉は恋というロマンティックな場面に、自分を入れてみることができなかった。
其のほかにもまだ彼女に対する功利的な或者があつた。
僕は彼女を此の上もない異性の一友人として待つ外に、一同志としての、即ち僕等の有力な一協力者として彼女を待つてゐた。
彼女に対する僕の恋は、此のいづれをも僕から奪ひ取つて了ふか、或は其のいづれをも僕に与へるか、どつちかである事を僕は知つてゐた。
しかし此の予想の中の僕にとつて有利な一方、恋なぞといふ余計な努力なしに、安全に、且つ比較的、永続的に得られる事である。
斯くして僕は、先にも云つたやうに、僕は決して彼女に恋をしてはならぬもの、彼女との恋を予感する度びに、僕自身にきめてゐたのであつた。
けれども、ああ、其の間にいつの間にか、恋は徐ろに僕の心に食ひ入りつつあつたのだ。
だん/\熱が高くなつて来さうなので僕は急いで東京に帰つた。
(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/伊藤野枝との共著『乞食の名誉』/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』_p579/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』_p265~266)
★大杉栄・伊藤野枝『乞食の名誉』(聚英閣・1920年5月)
★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)
★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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