2016年05月08日
第150回 革命のお婆さん
文●ツルシカズヒコ
一九一五(大正四)年、三月二十六日、葉山の日蔭茶屋に到着した大杉は、風邪気味だったのですぐ床についた。
鼻水が出る。
少し熱加減だ。
汽車の中でもさうであつたが、妙に興奮してゐて、床に就いても眠られない。
彼女の事ばかりが思ひ出される。
其の翌日も、翌々日も、ほんのちよつとではあるが熱が出て、仕事は少しも手につかない。
矢張り、妙に興奮してゐて、彼女の事ばかりが思い出される。
少々癪にさはつて、女中を三四人集めて、酒を飲ませて歌を唄はせて馬鹿騒ぎをして見たが、ちつとも浮かれて来ない。
彼女には置手紙までして来てゐるのに、彼女からは何んとも云つて来ない。
堪らなくぢり/\する。
ああ、僕は遂に、全く彼女に恋に落ちて了つたのだ。
(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/伊藤野枝との共著『乞食の名誉』/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』_p568/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』_p255~256)
そして、大杉の脳裏に浮かんだのは、いつか堺利彦がした戯談(ぎだん)と、それ以来、芽生えた堀保子の淡いしかしコンスタントな疑いだった。
「ついにあれが本当になった……」
大杉はそう認めざるを得なくなった。
それはちょうど一年ほど前、野枝の訳著『婦人解放の悲劇』が出版されたころだった。
ある日、堺が遊びに来た。
雑談の末に青鞜社の話になり、堺が野枝について語り始めた。
『君いよ/\本物が出て来たんだよ。今でこそああしてなるべく社会と没交渉な生き方をしていると云つてゐるが、あの女ならきつと今に飛び出さずにはゐられなくなるよ。随分しつかりしているやうだからな。』
『うん、文章なんかでも実にしつかりしたもんだ。とても十九や二十の女の文章ぢやないね。男だつてあんなのは少ないよ。』
『尤もそれは大ぶ御亭主のお手伝があると云ふ話だがね。』
『ハハゝゝゝゝ、御亭主か、可哀相に。いづれは弊履(へいり)のように棄てられるんだらうな。』
(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/伊藤野枝との共著『乞食の名誉』/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』_p569/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』_p256~257)
堺はいつもの大きな声で笑いながら言った。
「革命のお婆さん」と言われて、ケレンスキー時代の新しいロシアで盛んにもてはやされたブレスコフスカヤが、かつて夫を棄てて革命運動に走ったという話があった。
幸徳秋水が彼女の評伝に「彼女は弊履のごとくにその夫を棄てて」と書いた。
それ以来、大杉たちの運動に入って来ようとでもいうような女について、この「弊履」という言葉が大杉たちの間でよく使われていた。
ブレスコフスカヤの夫は、彼女の自叙伝の中にもあるように「農奴解放の三年後、私は自由主義の一青年と結婚した。彼は性質が寛宏なる、地方の一地主で、地方議会には特に深い興味を持っていた。で、私のために農学校を建ててくれ、私どもはまず農民の教育を始めた」くらいの男であった。
しかし、いわゆる「人民の中へ行け」という平和な教育運動に対する政府の無法な迫害とともに、その運動がさらに新しい革命運動に変わろうとしたとき、彼女は当時、二十六歳であった。
夫もやはり同じ年ぐらいで、ふたりの行く末はまだ永かった。
そこでブレスコフスカヤは「主義のためには追放も辞せぬ、死をも恐れぬという大決心があるか」と夫に糺したところ、彼はそこまでの堅い決心はないと言った。
彼女はただちに夫と離別した。
辻についてはただ少々英語ができるだけの、よほどの愚図のように、大杉たちの間には伝わっていた。
「そりゃもちろんだね。いよいよそうとなれば、僕らの間の誰かと恋に落ちるか、それでなくてもどうしてもあんな男とは別れなくちゃなるまいよ」
「やあ、あぶないぞ保子さん。よっぽど気をつけなくちゃ。ハハハハハハ」
堺はそのときまで黙って聞いていた保子をからかいながら、大きな声で言った。
Y子の眼は急に強く光つた。
そして、いつもならばそんな戯談は軽く受け流して了ふ彼女が、
『ほんとにあなた方はいけない。こんな話になると、すぐにそんな風にとつて了ふんだから。あの人の御夫婦だつて、随分深い恋仲なんださうだし、さう易々と別れられるものですか。』
と真面目になつて云ひ返しては見たが、暫くして又思ひ直したやうに、
『ええ、此の人なんかはほんとに何をするか知れたもんぢやありませんよ。』
と笑つて見せてゐたが、しかし彼女の眼の色は依然として光つてゐた。
「馬鹿ツ」
僕は軽く笑つた。
「ほんとだよ、Y子さん。大いに気をつけなくちや。」
Sは殊更のやうに前よりも大きく笑つた。
(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/伊藤野枝との共著『乞食の名誉』/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』_p571/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』_p258~259)
堺も保子も、大杉が保子と一緒になる前の彼のふしだらをよく知っていた。
そして大杉の「フリーラブ・セオリー」も知っていたーーもっともそれは堺が大杉に教えたものだったのだが。
大杉豊『日録・大杉栄』によれば、大杉は東京外国語学校在学中の二十歳のころ、麹町区下六番町二十七番地(現在の番町小学校敷地内)に住んでいた。
大杉は「其頃僕は僕よりも二十歳ばかり上の或る女と一緒に下六番町に住んでゐたのだ」(「自叙伝」)と書いているが、荒畑寒村はこう回想している。
……大杉は外語に通っていたころ、下宿のおかみさんといい仲になってたんです。
そのうち、おかみが年上なもんだからいや気がさして別れたくなった。
それで、堀保子を介して、おかみと手を切ってもらったんです。
(『寒村茶話』_p137)
一九〇六(明治三十九)年の春、寒村は紀州田辺を引き払って堺利彦の家に寄寓し始めたが、そのころ堺家には保子、深尾韶、大杉も寄寓していた。
保子は、硯友社同人で読売新聞などの記者をした堀紫山の妹であり、二年前に死別した堺の先妻・美知は保子の実姉だった。
一九〇五(明治三十八)年、堺は延岡為子と再婚、保子も堺の友人と結婚したが離婚した。
大杉と保子が結婚したのは、一九〇六(明治三十九)年八月である。
下宿のおかみと手を切る際に仲介役を務めた保子に、大杉が惚れて結婚を迫った。
ところが、保子女史は深尾と婚約してるもんだから、なかなかウンと言わない。
とうとう大杉はある晩、保子女史の目の前で自分の着ている浴衣に火をつけて、「さあ、どうだ」って迫ったといいます。
さすがの保子女史もこれには参って、つい落ちちゃったというので、これこそ文字通りの、「熱い恋」だなんて、みんなでしゃれを言ったものですよ。
(『寒村茶話』_p137~138)
結婚といっても入籍はせず、夫婦別姓、保子の方が六、七歳年上の姉さん女房である。
★大杉栄・伊藤野枝『乞食の名誉』(聚英閣・1920年5月)
★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)
★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
★『寒村茶話』(朝日新聞社・1976年8月25日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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