2016年03月21日
第33回 出奔(五)
文●ツルシカズヒコ
一九一二(明治四十五)年四月十五日付けの辻の手紙は、こう続いている。
然し問題は兎に角汝がはやく上京することだ。
どうかして一時金を都合して上京した上でなくつては如何(どう)することも出来ない。
俺は少くとも男だ。
汝一人位をどうにもすることが出来ない様な意気地なしではないと思つてゐる。
(「出奔」/『青鞜』一九一四年二月号・第四巻第二号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p103)
野枝の脳裏をいろいろなすべての光景が一度になって過ぎて行った。
今までまるでわからなかった国の方の騒ぎも、いくらかかわるような気もするし、学校での様子などもありありと浮かんできた。
そうして若し汝の父なり警官なり若しくは夫と称する人が上京したら逃げかくれしないで堂々と話をつけるのだ。
九日附の手紙をS先生に見せたのも一つは俺は隠くして事をするのが嫌だからだ。
姦通など云ふ馬鹿々々しい誤解をまねくのが嫌だからだ。
イザとなれば俺は自分の位置を放棄しても差支ない。
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p103))
野枝の目は「姦通」という忌まわしい字の上に落ちて止まった。
「本当にそうなのかしら……」
野枝は身震いしたが、末松福太郎が憎らしいよりも滑稽になってきた。
あの男にそういうことが言える確信が、本当にあるのかおかしくなってきた。
「私妻」などと書かれたことの腹立たしさよりも、麗々しく書いた男が滑稽に思えてきた。
俺はあくまで汝の身方になつて習俗打破の仕事を続けやうと思ふ、汝もその覚悟でもう少し強くならなければ駄目だ。
兎に角上京したら早速俺の処にやつてこい。
かまはないから、俺の家では幸にも習俗に囚はれてゐる人間は一人もゐないのだから。
母でも妹でも随分わけはわかつてゐる。
そうして俺を深く信じてゐるのだ。
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p103))
いろいろな感情が一時に野枝をかき回し、それが鬨(とき)の声を挙げて体中を荒れ狂うように走った。
遠慮せずにやつて来るがいゝ、だが汝はきた上でとても俺の内に辛抱が出来ないと思つたら、何時でもわきに行くがいゝ俺は全ての人の自由を重んずる。
兎に角東京へくれば道はいくらでもつく、そんなに心細がるなよ、だが汝は相変らず詩人だな、まあ其処が汝の尊いところなのだ。
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p103))
野枝は辻の愛をこんなにも早く受けようとは思いもしなかった。
ただ彼女の気持ちをときどき不快にするのは、辻との恋のためだけに家出したと思われることだった。
彼女はなんとはなしに、自分にまで弁解がましいことを考えていた。
けれどもそれもひとつの動力になっていると思えば、そんなことはもう考えていられなくなり、今すぐにでも上京したくなった。
俺は近頃汝のために思ひがけない刺戟を受けて毎日元気よく暮してゐる。
ずいぶん単調平凡な生活だからなあ。
上京したらあらいざらひ真実のことを告白しろ、其上で俺は汝に対する態度を一層明白にする積りだ。
俺は遊んでゐる心持をもちたくないと思つてゐる。
なんにしろ離れてゐたのぢや通じないからな、出て来るにも余程用心しないと途中でつかまるぞ、もつと書きたいのだけれど余裕がないからやめる。(十五日夜)
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p103))
野枝は目を据えて東京に着いたときのことを、いろいろに想像してみた。
そして、上京するまでの間に見つかるなどということを、それまで少しも考えなかったので、急に不安で胸が波打った。
辻からの手紙を読み終えた野枝は、しばらく唖然としていた。
空っぽになった頭に、早く行きたいという矢も盾もたまらない気持ちが、いっぱいに広がった。
いつにない楽しい気持ちで、電報為替をじっと見つめながら、鏡を出して頭髪に差したピンを一本一本抜いていった。
「出奔」に書かれている辻の手紙の文面は、辻が実際に野枝宛てに書いた手紙の文面だと考えてよいのだろう。
そうなると、このとき野枝が辻に宛てて書いた手紙の文面も知りたくなるが、残念ながら、その手紙は空襲で焼失し現存していない。
しかし、辻のハートを一気に鷲づかみにする文面だったのだろう。
「あきらめない生き方・その二」も、野枝の手紙文を書く文才が、新たな道を切り拓いたことになる。
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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