2016年05月09日
第156回 同窓会
文●ツルシカズヒコ
一九一五(大正四)年四月ごろ、野枝は上野高女の同総会に出席した。
上野高女は校舎移転改築のため銀行から資金を借り、校舎の外観が整い入学者が増えるにつれて、資本主の干渉が始まった。
その対立の末「創立十周年の記念日を期し」て多くの教職員とともに佐藤政次郎(まさじろう)教頭と野枝のクラス担任だった西原和治も上野高女を辞職した。
同窓会も母校と絶縁し、佐藤を中心とする温旧会を結成した。
私の卒業した女学校に此の頃或る転機が来て頻りに動揺してゐ。
私は学校を出てから四年の間一度もよりつかなかつたやうな冷淡な卒業生であつた。
学校側でも同窓会があらうと音楽会があらうと、バザーがあらうと、一片の通知もよこさなかつた。
私は全く異端視されてゐた。
卒業生仲間でもさうだつた。
私は学校に対しては何のつながりも感じはしなかつた。
けれども学校の中心になつてゐる二先生丈けはどうしても学校と同一視しては仕舞へないでゐた。
此度その先生お二人が辞職なすつたと云ふさはぎで私は突然に再三同窓会の大会に出席することをすゝめられた。
初めて学校を出てから、同窓会の勧誘をうけたのだ。
私は多くの人の勝手に呆れながらも先生への愛感に引きづられて、出席した。
けれども私は、反感と侮蔑と失望でかへつて来た。
(「編輯室より」/『青鞜』1915年5月号・第5巻第5号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p214)
野枝は前年の『青鞜』六月号に「S先生に」を寄稿し、Sという匿名ではあるが教育者としての佐藤を痛烈に批判した。
同窓会に出席した佐藤は昂奮していたという。
おそらく学校側の対処に激昂していたのであろう。
佐藤のために東奔西走した人たちも、佐藤の激情に巻き込まれて昂奮していた。
同窓生たちも母校と校長に燃えるような反感を持っていた。
野枝もその怒りには深い同感を持てたが、佐藤の現実を無視したあまりの理想家ぶりに辟易した。
同窓生たちの佐藤の言うことになんでも賛成さえしていればいいという態度にも辟易した。
私は少しの間にすつかり退屈してしまつた。
そうして今更ながらあまりにひどい思想の懸隔が気味わるくも思はれるのであつた。
そして先生の十年の努力の結果がこれ丈けのものにしか現はれなかつたと云ふことを考へて私はかなしくなつた。
(「編輯室より」/『青鞜』1915年5月号・第5巻第五号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p214)
佐藤は上野高女を退職した翌年秋、函館に渡り(その際に新井奥邃から在寛の号を贈られる)、以後、函館で活動し、一九五六年(昭和三十一年)十月、八十歳で死去した。
野枝は『第三帝国』に「自覚の第一歩」を書いた。
「自分の考えの上に努力しない人」と云ふ言葉は現在及び過去の日本婦人の大方の人に対して用ゐらるべき言葉である。
私はそれを按じて日本婦人の一大欠点と切言し得るのである。
自分の考へを自分で仕末する事の出来ない人々とは何たる情ないことであらう。
何故にかうもすべての婦人が一様に悲しむべき欠点を持つに到つたであらう?
勿論これを日本婦人が過去幾十代幾百代にわたつて持つた、たつた一つの非常なる屈辱の生活の賜物である。
私はかほどまでに彼女等が物を考へまいとする恐ろしい力をもつた習俗を平気で無意識に持つてゐると云ふことが如何に多くの苦しい努力と多くの時間を費やしたかを考へると、私達の先祖なる婦人達が如何に盲目で唖者であることを必要としたかゞ解る。
そしてそれを必要とする婦人の生活が如何に不安で矛盾が多くて、普通に目が明き口をきけることが恐ろしかつたかゞ想像し得られる。
私達はさうした境遇におかれた婦人に対して出来る丈けの同情をよせる事は惜しみはしない。
併(しか)し私達の先祖はあやまつてゐた。
彼等には勇気と決断とが与へられてゐなかつた。
彼等はそうした唖者になることや盲目になることが如何に不幸なものゝ数々を出来(しゆつたい)さすかを決して思はなかつた。
彼等はたゞ現在に媚びつゝ時に引きづられつゝ単調な何の栄もない万遍なき記録を残した。
けれども彼等の記録によつて模倣を強ひられた後継者達は模倣を意識しなくなつた。
彼等は生まれながらの唖者や盲者であつた。
彼等はだん/\彼等が唖者たり盲者たらねばならぬ理由からは遠くなつていつた。
併し遠ざかられ忘れられた理由や原因は決して時のたつたが為めに消失はしなかつた。
時々彼等の前には二つの道が展(ひら)かれてあつた。
彼等はそのどれかをえらばなくてはならなかつた。
鈍なる者は苦もなく撰ぶことが出来る。
やゝ敏なる者は迷ふ。
併し考へることは許されない。
彼等は迷つて先輩の意見を仰いてわづかにその迷ひからのがれる。
そうしてずつとつゞいて来た。
一糸乱れぬーー乱すことの出来ない厳密な科学の原理ーーさう云ふ正しい理屈を学んだものすらこの恐ろしい習俗の力にかつことはむづかしかつた。
女学校や程度の低い女子大学を出た位でと云ふが併しかうも意気地(いくじ)のないものであらうかと私は思ふ。
彼等は何の為めに学科を学んだのであらう。
自分のことも他人にきめて貰はねばならぬ程ならば無学無智の女と何処にかはりがあらう。
自分のことではないか、自分のこと、本当に考へねばならぬことを人に考へて貰つてきめるとは実に情ないことだと私は思ふ。
(「自覚の第一歩」/『第三帝国』1915年4月15日・37号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p194~195)
そして、野枝は前年『青鞜』誌上で『読売新聞』の「婦人附録」を批判しているが、「自覚の第一歩」でも「婦人附録」の人気コーナーである「身の上相談」の相談者に苦言を呈している。
野枝は『第三帝国』三十八号に「婦人の反省を望む」を書いた。
『女賢(さか)しうして牛売り損ふ』……『女の智恵は猿智恵』等と昔から日本の婦人は……侮辱され続けて来ました。
そして昔とちがつて今日では婦人も相当な教育の道が開かれて多くの教養ある婦人が輩出するに至つてもなを……私共は……この侮辱を否定する訳けにはまゐりません。
今日婦人の為めに新聞雑誌など云ふものが幾種類も出来てゐます。
そしてこの後もずんずん殖えて行くでせうがその殆んどすべてを通じてどんな内容をもつてゐるかと申しますと、それは大方の人々が知つてゐるやうにそれは低級な子女の何の訓練も加へられない情緒を猥(みだ)りに乱すやうなのや、それでなければ善良な家庭の主婦達の安価なよみものに過ぎません。
日本の婦人雑誌で一番多数の読者を持つてゐると云はれる『婦人世界』はその最も安つぽさを振りまはしてゐる点では恐らく矢張り一番であらうと思はれます。
その内容は一目見ても何の思慮も分別もなしに吐き出され『何々夫人の経験談』『何々夫人の苦心談』『某夫人の夫を助けて何々せし談』等がかずかぎりもなく記載されてあります。
(「婦人の反省を望む」/『第三帝国』1915年4月25日・38号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p198)
野枝は子供の教育についてこう言及している。
私は小学校から女学校を卒業する迄十年余の長い間の学校でうけたいろ/\な気持ちや印象やを思ひ出す度びに身ぶるいが出ます。
……自分たちの子供をあの無遠慮な……頑迷な無自覚な教育家たちの群れに法律によつてきめられた強制的な義務によりて五年なり六年なり托さねばならぬと云ふことについてどうしたならば私の大切な子供達に愚劣な教師たちの手をふれさせないですむかと云うことばかり考へてゐます。
子供の本当の教育は子供自身にしか出来はしないと私は思ひます。
(「婦人の反省を望む」/『第三帝国』1915年4月25日・38号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p200)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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