2016年05月20日
第196回 豆えん筆
文●ツルシカズヒコ
大杉栄、堀保子、神近市子、伊藤野枝ーー当事者たちに会って、今回の騒動の真相を知りたいと考えたジャーナリストがいた。
『女の世界』編集長の安成二郎である。
安成の視点は新聞記事から一歩踏み込んだ、雑誌ジャーナリズムの視点だった。
安成は大杉が保子という正妻がありながら、神近という愛人を持ったことにはジャーナリストとしての関心はほとんどなかったが、野枝の出現にもかかわらず大杉と神近との関係が途絶えていないあたりに、なにかこの事件の「核心」を嗅ぎつけたのだった。
そして、辻潤の妻であり二児の母である野枝が、夫と子供を捨てて正妻がいてかつ愛人もいる大杉の許に走ったという事実。
……其の家出はノラの家出よりも或る点に於て重大な意味の存在する事を思はざるを得なかった。
此の考が僕の職業に対する考と結びついたのである。
(「大杉栄君の恋愛事件/『女の世界』1916年6月号/安成二郎『無政府地獄ーー大杉栄襍記』_p58)
一九一六(大正五)年五月七日、安成は久しく会っていなかった大杉に電話をかけた。
この日は平民講演会があるというので、安成も行ってみることにした。
夜七時から牛込区横寺町の芸術倶楽部の洋貸室で平民講演会が催されたが、大杉の準備不足のために雑談になった。
大杉の準備不足は、御宿に行き野枝と会っていたからだった。
大杉に会いに来た安成は、保子に対する大杉の気持ちを『女の世界』に書いてほしいと用件を伝えたが、大杉は断った。
それはともかく、会場に神近が来ていることに安成は驚いた。
会は夜十時に閉会になった。
安成は大杉、神近と大杉が下宿している麹町区三番町の第一福四萬館に行き、ふたりから話を聞いた。
翌五月八日、安成は東京日日新聞社を訪れ、神近から二時間ばかり詳しい話を聞いた。
五月八日正午ごろ、中村狐月が大杉を訪ねた。
大杉と狐月の間にひと悶着起きていたからである。
五月五日、五月六日の『読売新聞』「読売文壇」欄に、中村狐月が「幻影を失つた時」を書き、個人名は出していないが、糟糠の妻を捨てた大杉と妻に愛着のある夫を捨てた野枝を真っ向から非難した。
……一人の男が、他の一人の男と共同生活を為(し)ている女を伴(つ)れて行く場合に、其女と男との同意を得なくして伴れて行く時には、全然掠奪者の行為である。
同じ如(やう)に女が愛着の有る男と生活して居る場合に、他の女が其男を伴れて行くことも惨忍である。
其れにもかゝはらず新しく恋の成り立つように見える男と女が、其等の愛着して居る人間に、苦悶と悲痛とを負はしめて去るならば、明かに其等の人間は、道徳的でも、共生的でも、人情的でもなく、多数の人間の許す可らざる敵である。
(中村狐月「幻影を失つた時」/1916年5月6日『読売新聞』「読売文壇」)
大杉が野枝に宛てた「大正五年五月六日午後九時の手紙」の末尾に書いてある「狐月は『幻影を失つた』のだね。余計な幻影などをつくつたから悪いのだ。あきれ返つた馬鹿な奴だ」というのは、この一件のことである。
大杉はこの一件について野枝宛て書簡にこう書いている。
狐月と強制妥協して、次ぎの如きハガキを読売へ送るつもりで書いた。
●中村狐月氏、去る五、六日、本紙所載『幻影を失った時』中の、某氏及び某女子にあてつけた項は、全く感違ひにつき、其の全部を取消すと。
しかしまだ読売抄の締切前らしいので、土岐(善麿)へ其の旨電話したら、自分の領分の社会部で取扱はうと云ふ返事だ。
いたづら者だね。
又今、二郎が来て、とうたう書くことにした。
あしたの朝八時の汽車で行くさうだから、此の手紙は持つて行つて貰ふことにした。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年五月八日午後二時/『大杉栄全集 第四巻』_p609~610)
この日、五月八日の夕方、大杉は安成と一緒に読売新聞社に行き、土岐の取材に応じてこの件は落着した。
五月九日の読売新聞社会面(五面)「豆えん筆」欄に、こんなゴシップ記事が掲載されている。
……大杉栄君、『幻影を失った時』を読んで大いに抗議を申込み遂にあの文章の中『大杉伊藤両者にアテつけた項だけは全く感違ひに付全部を取消す』といふことにさせたといふが……
その恋の勝利者大杉栄君もしかし保子夫人に対しては何やら気がすまぬところもあると見えて、安成二郎君が五月の『世界人』に載せた『妻よ、物も言はずにそんなに俺の顔を睨(にら)めて呉れるな、恐い』というウタにひどく共鳴してゐるさうな。
(1916年5月9日『読売新聞』「豆えん筆」)
狐月は不満があったようで、「豆えん筆」は五月十日には狐月の話を入れて続報している。
★安成二郎『無政府地獄- 大杉栄襍記』(新泉社・1973年10月1日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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