2016年05月19日
第194回 電話
文●ツルシカズヒコ
大杉が御宿の上野屋旅館にやって来たのは五月四日だった。
大杉は上野屋旅館に五月六日まで滞在した。
五月五日、この日、野枝と大杉は勝浦に行った可能性が高い。
野枝の手紙(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月九日・一信)に「今日は一緒に勝浦へ行った日を懐(おも)はせるやうないいお天気です」とあるからだ。
帰京した五月六日夜、大杉は野枝に手紙を書いた。
発車すると直に横になつて、眼をさましたのが大原の次ぎの三門(※みかど)。
其処で尾行が代つた。
多分大原から新しいのが乗り込んだのだらう。
又、本千葉まで眼つた。
其処でも新しい奴が乗り込んで、千葉で交代になつた。
最後に又亀戸で代つた。
都合三度、四人の男が代つた訳だ。
御苦労様の至り也。
電報と手紙が一通づつ来てゐる。
今其の手紙を読んで見て、あんなに電話をかけるのをたのしみにしてゐたのを、本当にすまなかつたと云ふ気が、今更ながらに切りにする。
どんなに怒られても、どんなに怨まれても、只もう、ひた謝りに謝るつもりで出掛けたのであつたが、会つて見ると、それも何んだか改まり過ぎるやうで出来なかつた。
しかし本当に済まなかつたね。
もう一つ済まなかったのは、ゆうべとけさ。
病気のからだをね。
あんな事をしていぢめて。
あとで又、からだに障らなければいいがと心配してゐる。
けれども本当にうれしかつた。
本千葉で眼をさまして、おめざめにあの手紙を出して読んで、それからは、たのしかつた三日間のいろ/\な追想の中に、夢のやうに両国に着いた。
今でもまだ其の快よい夢のやうな気持が続いてゐる。
東京朝日(けさ宿でかしてくれたあの新聞にも、此の記事があつたのぢやあるまいか。ツイうつかりしてゐたが)と万朝と読売との切抜を送る。
けふの万朝には何も出てゐない。
もう終つたのだらうか。
狐月は『幻影を失つた』のだね。
余計な幻影などをつくつたから悪いのだ。
あきれ返つた馬鹿な奴だ。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年五月六日午後九時/『大杉栄全集 第四巻』_p608~609)
大杉が五月四日に御宿にやって来た経緯を推理してみたい。
野枝が大杉に宛てた「五月二日の手紙」に「さつき郵便局までゆきましたら、東京と通話が出来るんです。明後日の朝かけますからお宅にゐらして頂だいな」とある。
つまり、五月四日の朝に、野枝が大杉の下宿先である第一福四萬館に電話をかけることになっていたのである。
野枝が大杉に宛てた「五月三日の手紙」のラストには「今から電話をかけに行きます。かけてお留守だと、本当にいやになつて仕舞ひますね。何卒ゐて下さいますやうに。何にを話していいのか分りません」とあるが、この手紙は五月三日の夜に書き、翌日の五月四日朝に投函するつもりだったのだろう。
あるいは、五月三日の夜から五月四日の朝にかけて書いたのかもしれない。
ともかく「今から電話をかけに行きます」というのは、五月四日朝、郵便局にこの手紙を出しに行き、そして野枝は約束していたとおり大杉に電話をかける段取りだったのだ。
御宿から帰京した五月六日夜、大杉が野枝に宛てた手紙に「電報と手紙が一通づつ来てゐる」とあるが、これは五月四日の朝に野枝が郵便局から出し「五月三日の手紙」、そして電話をしたが大杉が不在だった(もしくは何らかの理由で電話にでることができなかった)ことに対する、野枝の怒りの電報であろう。
野枝から電話があったことを知らされた大杉は、「しまった!」と思ったにちがいない。
ともかく、至急、御宿に出向いて謝るしかないという思いで、大杉が御宿に駆けつけたという推察ができそうだ。
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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