2016年05月26日
第216回 午前三時
文●ツルシカズヒコ
一九一六(大正五)年十一月九日、日蔭茶屋のどこかの時計が午前三時を打った。
ふと、大杉は咽喉のあたりに熱い玉のようなものを感じた。
「やられたな」
と思って、いつのまにか眠ってしまった大杉は目を覚ました。
「熱いところをみると、ピストルだな」
と思った大杉が前の方を見ると、神近が障子を開けて部屋の外へ出て行こうとしていた。
「待て!」
大杉が叫んだ。
神近が振り返った。
彼女の顔色は死人のように蒼ざめ、普段でも際立っいる顔の筋が、ことさらに際立って見えた。
そして、ひどくびっくりしたように見開いたその目には、恐怖と憐れみを乞う心とがいっぱいに充ちているように大杉には見えた。
「許して下さい」
この言葉は意外だったが、大杉は許すことができなかった。
その瞬間、なんという理屈はなしに、大杉はただ彼女を捕まえてそこへ叩きつけなければ止まなかった。
大杉は起き上がり、逃げようとする神近を追って縁側まで出た。
神近はそこの梯子を走り降りた。
続いて走り降りた大杉は、彼女の背中に飛び降りるつもりで飛んだが、彼女が降り切るのがほんの一瞬だけ早かった。
彼女は下の縁側を右の方へ駆けて、七、八間向こうの玄関のところからさらに二階の梯子段を登った。
大杉は梯子段を飛び降りたときから、急に足の裏の痛みと呼吸が困難になってきたのを感じながら、なお彼女を追っかけて行った。
その二階は、大杉の居室がある二階とは棟が違っていて、大きなふたつの部屋の奥の方は、その夜、宿の親戚の女たちの寝室になっていた。
神近はその手前の部屋の中に入り、紫檀のちゃぶ台の向こうに立ち止まった。
「許して下さい」
彼女は恐怖で慄えながら、また叫んだ。
大杉はちゃぶ台を踏み越えて、彼女を捕まえようとした。
彼女はまた走り出した。
奥の部屋に寝ていた女たちは、大杉の方を見つめながら慄えていた。
大杉は呼吸困難で咽喉がヒイヒイ鳴るのを覚えながら、なお彼女を追っかけて行った。
彼女はさっきの梯子段を降りて、廊下をもとの方へ走り、もとの二階へは昇らず、そこから左の方へ便所の前に折れた。
そして、その折れた拍子に彼女は倒れた。
大杉も彼女の上に重なって倒れた。
大杉はそれから時間がどれだけ経過しのかわからなかったが、ふと気がついてみると、血みどろになってひとりでそこに倒れていた。
呼吸はもう困難どころではなく、ほとんど窮迫していた。
「これはいけない」
と思った大杉はようやく壁につかまり立ち上がって、玄関の方によろめいた。
玄関のそばには女中部屋があった。
大杉は女中を起こして医者を呼びにやろうと思ったが、その女中部屋の前でまた倒れてしまった。
倒れると同時に、大杉はその板の間が血でどろどろしているのを感じた。
大杉は女中を呼んだが、返事はなかった。
二階の宿の親戚の客に脅かされて、みんな一緒に奥の方へ逃げ込んでいたのである。
しばらくして、その親戚のひとりの年増の女がおずおずと、倒れている大杉のそばに来た。
「あのね、すぐ医者を呼んで下さい。それから東京の伊藤のところへすぐ来るように電話をかけて下さい。それからもうひとつ、神近の姿が見えないんだが、どうかすると自殺でもするかもしれないから、誰か男衆に海岸の方を見さして下さい」
大杉は咽喉をひいひい鳴らしながら、ようやくのことで言った。
そして、大杉は煙草をもらって、咽喉の苦しさをごまかしていた。
その時になって、大杉は傷はピストルではなく刃物だということが分かった。
やがて、どやどやと警官が入って来た。
そのひとりがすぐに大杉に何か問い尋ねようとした。
「馬鹿! そんなことよりもまず医者を呼べ。医者が来ない間は貴様らにひとことも言わない」
大杉はその男を怒鳴りつけながら、頭の上の柱時計を見た。
三時と三十分だった。
「すると、眠ってからすぐなのだ」
と大杉は自分に言った。
それから十分か二十分かして、大杉は自動車で日蔭茶屋からいくらもない逗子の千葉病院に運ばれた。
そしてすぐに大杉は手術台の上に乗せられた。
「長さ……センチメートル、深さ……センチメートル。気管に達す……」
院長が何か傷の中に入れながら、助手や警官らの前で口述するのを聞きながら、大杉はこう思った。
「今日の昼までくらいの命かな」
大杉はそのまま深い眠りに陥った。
以上、日蔭茶屋事件を大杉が事件の六年後に『改造』に発表した「お化を見た話」に沿って書いてみた。
この事件の当事者は大杉と神近のふたりだが、他に目撃者はいないので「真相」は当事者のふたり以外は知ることができない。
「お化を見た話」は一方の当事者である大杉が見た日蔭茶屋事件である。
ちなみに、大杉が運ばれた千葉病院の院長・千葉吾一は「五日市憲法」の起草者のひとりである。
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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