2016年07月10日
第286回 警視庁(三)
文●ツルシカズヒコ
「だからさーー」
大杉は少しでも呑気に刑事部屋にいられるのを楽しむように、意地の悪い微笑を含みながら、ゆっくりと話し出した。
「つまり、君の言う主義というのは、四、五年前に僕のところで話したのと違ったわけじゃないんだろう。ね、君の主義は人民がみんな君を安んじて国を想いめいめいに国家や政府に世話を焼かせたり迷惑をかけたりしないようにならなくちゃならん、ということなんだろう?」
「そうです、そうです。その通りです。人民がみんな忠君愛国を重んずる立派な人間であれば、国は安穏に治まり、人民は幸福に暮らすことができるようになります」
「そうなればだ、こんな警察なんてものもいらないね。監獄なんてものもいらないようになるね。そうだろう、悪いことをする奴さえいなければ」
「そうです、そうです」
「だからつまり、君の言う忠君愛国主義というのは、突き詰めれば、人民がみんなで国家や政府の御厄介にならずにすむような世の中にしなければならんという理想になるんだね」
「その通りです」
「そうだとすれば、僕の主義もやはり人民がお互いに相談し合って国家や政府の御厄介にならんように自分たちだけでなんでも治めていこうというのだから、君の主義と僕の主義はまったく同じことになるじゃないか。賛成も不賛成もあるか、まったく同じだ」
大杉は笑いをこらえながら、巧みにもっともらしく、この気狂いと自分とを結びつけてしまった。
このアイロニーはこの愛国者を侮辱したものであり、野枝と村木以外の人たちを煙たがらせるものだったが、野枝は思わず吹き出してしまった。
村木も声を出して笑った。
大杉はこの意地悪な言葉の反響を促すかのように、テーブルの上に両肘を立ててプカリプカリと煙草を吸っていた。
Y警部と刑事たちは、大杉のこの馬鹿馬鹿しいアイロニーを、苦笑いで誤魔化すしかなかった。
みんなが気狂いじみた愛国者の反応を興味深く待ちかまえていると、
「まったくだ! まったくだ!」
彼が叫ぶように言った。
「私とあなたは今は主義が違う。しかし、最後に行きつくところは同じだ。人間は各自が違う、だから出発点は違う。しかし、行くべきところはひとつでなければならんはずだ。けれども、世間の奴はなかなかわからん。さすがは大杉さん、あなたは違う、偉い。あなたはもう私の主義をすっかりのみこんでいる、理解している」
野枝はこの気狂いじみた男の馬鹿さ加減を、次第に笑うに笑えなくなってきた。
「これで、あなたの情熱を持って我々の主義を宣伝して下されば、こんな力強いことはない。ねえ、みなさん、世間には人間がウジャウジャいる、うんといる。けれどもだ、この大杉さんのような立派な力強い熱を持っている人がはたして幾人あるか? 私はよく知っている、めったにいない」
彼は激しく唾を飛ばしながら、一向手応えのない大杉の方に向かって盛んにしゃべりたて、顔を真っ赤にしていた。
「そこで大杉さん、ひとつここに署名をして下さい。あんたのような人を味方にしたのは、私の大いなる誇りです。手柄です。百万の味方を得たと同じです。なにとぞ、ひとつここに書いて下さい」
男は大きな帳面を取り上げて、野枝の肩のあたりでその頁を繰って、最後の空きスペースを見つけると、ドシリとその帳面をテーブルの上に置いて大杉の前につきつけた。
大杉はあいかわらず微笑しながら、前の方の頁を繰って、名士たちの署名を読み始めた。
そこには、各方面の名士の名前が、いろいろな書体で、いろいろな墨色で、大きく小さく、それぞれの特徴を見せて並んでいた。
『此の男の何処にこれ等の名士達を引きつける魅力がひそんでゐるのだらう?』
私はつく/″\と此の男をふり返つて見ました。
どう見ても品のない豆粒のやうな汗がおびたゞしく滲んでゐる顔には別に人を動かすやうな何物もひそんでゐさうには思はれませんし、その厚ぼつたいフロックを着た不格好な姿にも何んの不思議もかくされてゐさうにありません。
たゞ此の男の持つてゐる異常なものと云つたらーーその向ふ見ずな熱狂だけでせう。
『気ちがひだ!』
じみてる位の話ぢやない本物の気狂ひなのだ!
私はさうひとりで決めてしまひました。
(「悪戯」/『ニコニコ』1920年2月号・第104号/「アナキストの悪戯」の表題で『悪戯』/「アナキストの悪戯」の表題で『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「悪戯」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p139)
「さあ、なにとぞ書いて下さい。あなたのような人の賛成を得るということは、非常にいいことです。なにとぞ、なにとぞ」
彼は刑事のひとりが出した硯箱を受け取って、筆を手に持ち大杉に突きつけた。
「書くよ、書くよ。まあ、待ちたまえ」
大杉は持っていた煙草をくわえると、筆を持った。
大杉はしきりに紙を見つめながら、この人の悪い悪戯をいかにも楽しそうに、そして早くすませるのが惜しいように、筆を宙にまさぐりながら、薄笑いをしていた。
野枝はそれをちょっと度のすぎた悪戯のように感じた。
野枝は大杉の悪戯に気づかない、この真っ正直な愛国者が可哀相になった。
しかし、また、立派な一流の名士に交じってノトオリアスな大杉の名前が書かれるのは、なんとも言えない痛快なことだとも野枝は思った。
大杉が紙の上に丸い線を描きだした。
そこに何か面白い肩書きを入れるためだと、野枝はピンときた。
「今度は君、肩書きを入れてもいいのかね?」
刑事連と何かおしゃべりしていた愛国者に、村木が聞いた。
「いや、それは勘弁して下さい! それは困ります。名前だけでよろしいのです。名前だけで、名前だけで」
愛国者は振り向きざまに、そのテーブルに上半身をかがめて大きな帳面を不格好に両手で覆いながら、慌ててそう言った。
その慌てた様子に、みんなが声を出して笑った。
ことに大杉はそれまでこらえていた分までも、一挙にほとばしり出たかのごとくに、笑い続けた。
みんなも散々笑ったが、この愛国者だけは大真面目だった。
彼はその帳面がまだ無事なことを知ると、例の寄付金を書いた鳥の子紙で帳面の大部分を覆って、大杉の名前だけを書く余白を残し、「名前だけ」とねだった。
「だって君ーー」
ようやくおさまってきた笑いを抑えるようにしながら、大杉が言った。
「君はたった今、唱えている主義なんかどうでもいい、行きつく先が一緒ならそれでいいと言ったばかりじゃないか。まあ、そこを退(の)けたまえ」
「いや、それはわかってますよ、わかってますけれど……」
「わかってれば、いいさ。まあいいから、そこを退けてみたまえ」
「肩書きなんかなくてもいいんです。あなたは有名な人だから、名前だけでいいんです。え、勘弁して下さい。ちょっとここへ名前だけ、ね、そうして下さい」
愛国者は再び懸命になって、鳥の子紙を帳面の上に押しつけた。
これまでの熱狂はどこかにいってしまい、今にも泣き出しそうな顔が大杉の前に突き出された。
「大丈夫だよ、無政府主義者なんて書きやしないから。しかし、ただ名前だけじゃ面白くないから、ここに『警視庁留置場にて』と書こうかと思ってるんだよ。それならいいだろう? ね、面白いじゃないか」
「ああ、そうですか、なるほどそれは面白いですね。いや、ありがとう、ぜひそう書いて下さい。非常に面白い」
愛国者は救われたというふうに、体を真っ直ぐにして、覆った紙をとり退けながら、元気にハンケチを出して汗をぬぐった。
「ハハハハハ」
現金に元気を取り戻した彼の無邪気さを、みんなが笑った。
そして笑いながら一服吸った大杉が、たっぷりと筆に墨をふくませて帳面に向かおうとすると、今度はただならぬ顔をしたY警部が愛国者を押しのけてテーブルに進み寄って来た。
「いや、それはいけません。そんなことを書いては困ります」
Y警部は吊り上がった眉をいっそう吊り上げて、ニコリともせずに、本当にただごとではないというような厳格な顔をして、大杉の筆を止めさせた。
「アハハハハ」
今度は声を出して笑ったのは、大杉と村木と野枝の三人だけだった。
「いや、ありがとうありがとう」
愛国者は署名が無事にすんだことを、いかにもうれしそうに帳面を抱え上げた。
「じゃあ、ちょっとその帳面を借りて行きますが、さしつかえありませんね」
Y警部が愛国者から帳面を受け取って、部屋を出て行った。
厳(いか)めしいY警部が出て行くと、室内がまたくつろいだ雰囲気になった。
刑事連は愛国者をまたからかったり冷やかしたりしながら、お茶を入れたりしてくれた。
大杉が翌日に未決監に送られてもいいように、必要なものを差し入れて、食事を取り寄せる手続きなどもして、野枝と村木は引き上げた。
野枝たちは結局、Y警部の部屋に二時間くらいいた。
愛国者はその日やはり帳面や寄付金のことを調べられるために、そこに来合わせたのだった。
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★大杉栄・伊藤野枝らの共著『悪戯』(アルス・1921年3月1日)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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